ここでは、浄漣寺 について紹介します。

在所:禁野本町1丁目

【ポイント】

①.宗派:浄土宗寺院。

②.慶長16年(1611)円蓮社頓誉上人が伏見の大光寺より来て開創。

③.昭和14年(1939)枚方禁野の火薬庫が爆発で記録の全てを焼失。

④.宝暦、安永の頃に有名な狂歌の名人瓢箪坊栗毬が住職を努める。(墓石あり)

【関連写真】

 本堂2012_12_05 金只​   

【補足説明】

①、インターネット『大阪再発見 浄蓮寺』より抜粋・・・全文は参考情報

 当山は1611年(慶長16年))円蓮社頓誉上人が伏見の大光寺より来て開創した。

 宝暦、安永の頃に有名な狂歌の名人瓢箪坊栗毬(ひょうたんぼうりっきゅう)が住職になっている。

 昭和14年(1939)枚方禁野の火薬庫が爆発し、そのあおりで地蔵堂を残して本堂、庫裡が一瞬にして吹っ飛び、お寺に係る文書などは一切残っていないとのことであり、境内墓地の一角にある瓢箪坊の墓石などが僅かに歴史を語るのみである。

 昭和18年(1943)本堂が再建され、現在に至っている。

 瓢箪坊栗毬:名は明蓮社光誉。仏道に精通し、和漢の学に秀で、和歌にも善かった,特に狂歌は浪華の栗阿亭に師事し、名人の域に達した。韃翁と称し、瓢箪坊、栗毬奉仕、茶々丸、楊果亭栗毬、ほうろく庵などの雅号を名乗った。生涯に5千余首の狂歌を残している。安永7年(1778)65歳で示寂。遺作集に『藻塩草』、『拾遺藻塩草』がある。辞世の句は『 南無阿弥陀 今うき世のつるきれて 身のなるはては ころりへうたむ

 【参考情報】

インターネット:大阪再発見浄蓮寺