登別温泉旧道をいく 

登別温泉は江戸時代など古くから温泉が出ることで知られてアイヌの人たちもかなり前から知っていた特別の場所だったようだ現在の登別から温泉までの行程は登別駅から塩見坂を通り中登別~登別温泉という経路が幹線になっているがこの中登別までの経路がここに定まるまでにはいくつもあることが知里真志保・山田秀三共著の『室蘭・登別のアイヌ語地名』に書かれている古道という記述などから容易に想像できる。

画像はカシミール3Dで作成しました

 

『温泉旧道」と記された道を探してみた

この道路は現在の白雪幼稚園~アオノ産資へいく道路の延長であることがわかっている。まずはアオノ産資を通り高速道路の下を抜けてく車を止めて砂利道沿いに歩いてみた。すると、石切り場の跡地に行ってしまい。旧道が見当たらなかった。そこでもう一度引き返し、同じ道を歩きながら、少しでも森が開けていそうな場所を探して藪の中に入ってみたら、そこに道があった。笹薮に隠れているが幅3m程度の道の跡があり、昔の幹線道路のイメージを想像できた。

旧道は尾根沿いに伸びていて歩く方向の右に、フシコベツ川が見下ろせるようになっている。この日は雨音がひどくて川の水のさらさら流れている音は聞き取れないが、ここはチャラシナイという名称がついており、サラサラと水の流れる音が聞こえる場所だったらしい。どこまでチャラシナイは続き、源頭があるのかと、気に留めながら腰上までくる藪の中を雨の中一人、歩いてみた。

 

尾根が屈曲するあたりで源頭らしい場所を見つけた

5mほどの落差の崖になっていて、その上には水の流れは無い。やはりここが源頭らしい。登別市内では札内大地をえぐる沢や谷地形を追いかけていくと頻繁に滝にぶつかる。札内不動の滝もそうだ。これは地形が侵食されていく前線いわゆる侵食前線になっている場所だ。このチャラシナイも侵食前線が源頭になっていることがわかった。

 

戦後に木を切り倒されて山が丸裸になったのか

さて、このあたりの右側の尾根はフシコペツエトコ・エサン・シト(エトコ・エサン・シト=山・から・浜へ出てくる・尾根)と言う名だが、別名エシケリムリムシシト(カタクリ・群生する・尾根)と言われたらしい。今は笹だらけでカタクリは育ちようも無いが『幌別町のアイヌ語地名」P14の写真を見るとチヤラシナイが丸裸の谷になっている。

この写真は30年代前半のころのものだと思うが、戦後、登別地区でもフンベサパやカムイミンタラなどでも食糧難でかなり奥地まで木を切り倒して畑ができたりしていることを見ると、ここも戦後に木を切り倒されて山が丸裸になったと想像できる。しかし、アイヌ語地名でカタクリの群生する尾根と名づけられたのは、それ終戦以前からこのあたりの山が人の営みに強く結びついて木が少ない環境であったということは古いコタンがこのチャラシナイの出口付近にあったことからも考えることができるのではないか。

また地名のフシコペツエトコ・エサン・シトは実に面白い 内容を含んでいる浜へ出てくる尾根というのはこのコタンのあたりの近くまで海があった時代の名残ではないかという可能性が読める。そうするとこのアイヌ語地名はかなり古い地名であったということになる。

つづく・・。

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