「札幌の雪が恋しくなりました」

南国紀州田辺からのお客様をご案内しさせていただいたあとのお手紙で「雪のない街に戻って札幌の雪が恋しくなりました」と言葉をいただいた。

これまでLocalWikiの活動で学んで書き溜めた風景、土、人々の奮闘、歴史、未来をたどる駆け足旅となった。

 

室蘭は稀有な文学の街

「鉄の街」と言われる室蘭を育んだのは海に突き出した断崖の地形。この地形が作り出した港、工業、自然と産業を見つめることで生まれた室蘭の文学の旅。港の文学館に記された知里真志保が文字に固めたアイヌの生き方とトッカリショ、吉田ルイ子の初恋の舞台からイタンキ浜を見下ろす。

 

登別には自立した強い経済がある

真志保を育てた、知里家の近くに建てられた知里幸恵の記念館。近代のアイヌの経済力と自ら学校を作り、教育を施した文化の力を知り、ここでこの館を守る人々に出会う。夏の海霧が育てる登別の牧草を選んだ登別酪農館のチーズを食べる。チーズを翌日のランチのために手に入れる。

 

札幌が生まれた背景には稀有な地勢がある


札幌で都市振興を目指す民間団体スマイルクラブの発足式に立ち会い、札幌グランドホテル伝統のバー、キャラベルでカクテルやスコッチを飲んだ。

翌朝起きると猛吹雪。グランドホテルの支配人と会談のあと、グランドホテルのロビーにある札幌出身の彫刻家、札幌商工会議所、札幌市、北海道庁の思い出できた老舗ホテルの歴史を刻む本郷新の「レッスン」を観た。すでに、外は快晴。眩しい雪景色の北海道庁の庭で、その池の由来と、本郷新の母子像を観る。映画「しあわせのパン」のプロデューサーが「ワインに合うパン」を目指して、開業したCoronで店長の接客を受け、北海道の小麦で焼いたパケットなどを買う。大通公園を歩いて、北キッチン!、丸井今井の地下で昼の準備をしながら「地域商社」の北海道百貨の社長と会談。岩見沢の宝水ワイナリーに行き、畑と醸造を担当する若い職員の案内で雪景色と工場を味わい、登別のチーズ、コロンのパン、ハムと宝水のワインを味舞う。札幌に戻り、エミリアロマーニャで7年修行した齋藤一さんの作るイタリアン。「昼食べ過ぎたと思ったのに、しっかり、お腹が空いて、食べられる」。

 

岩見沢は農を大切にしている



 

 

「観光ガイドの時代は終わったことを感じました 」

旅の終わりに、田辺の方は「観光ガイドの時代は終わった」と言いました。「観光ガイド」の固定した定番の旅や知識の案内、用意された旅ではなく、旅人と相談しながら、旅人の興味関心に合わせた旅の編集をする。あるいは旅人と同じよに自らの街を捉えることのできる人。経営者同士だったり、会社員同士だったり、興味関心の違う人、あるいは、旅人の知りたいことの専門家など、自分自身も含めて、旅人の「しごと」に必要な新たな出会いをくる人。観光で観るべき光はその地元で光を放つ人々なのではないかということのようだ。

 

  • 街の輝きが文字に固められてきた文学の街、教育の街、美しい自然の街、住民自治の輝く街、室蘭

たっ一時間しかないけど、「室蘭を観たい。知りたい」。という強い要望ででご案内したのは、室蘭の地形と地質、その地形から生まれた港、港と鉄道から生まれた製鉄、製鋼の工業文化がる。厳しい労働環境が生んだプロレタリア文学、過酷な男たちの労働の一方で栄える遊郭栄華を極めた。これは時代を坂のぼり、開拓道作りから繰り返す日本の近代を象徴する室蘭の歴史。

アイヌたちが作った小学校やそれを評価して支援する富豪や学者。「港の文学館」には時代が降る中で、室蘭の歴史と自然の美しい風景が生み出してゆく児童文学。アイヌ差別や工場労働、戦争、そして、戦後の高度成長から、鉄や石油産業の減産に基づく経済の縮小の中で、人々の生きる力を見つめるノンフィクションやジャーナリズムなど、多彩な室蘭の文学性が展示されていた。

文学館を出て、仏坂トンネルを見ながら北海道で最初の都市の中にある自動車専用道路を抜け、母恋の駅から、この冬にも母恋の住宅街を抜けるとすぐに現れるトッカリショの断崖。ここを駆け上り街を覆い尽くす海霧を銀の龍に例えて自慢すると、一行は霧の季節、夏にもここを訪れたいと云う。

観光道路を抜け、イタンキの浜を見下ろすかつてのゴルフ場のティー。日本の人類学、地理学の大変貴重な資料となった「奥地紀行」のイザベラ・バードの足跡をなぞり、水のつく谷地を開墾した屯田兵、太平洋戦争の終盤戦火を浴び、戦後の高度経済成長の時、狭い谷に人工のひしめいた輪西の商人たちが、新日鉄の幹部を動かし、国を動かし、室蘭市を動かし、使われなくなった

港の文学館には、三浦の著した「海洞」アフンルパロというアイヌの神語りをモチーフにした作品。「アイヌと犬は入れない」と自分の一番気にっていた美しいゴルフ場にアイヌの少年を連れて行った時に門番に阻まれ、初めて差別の存在を知った吉田ルイ子は、のちにアプルトヘイトの解体を訴えるフォトジャーナリストになった。アイヌ語で大小を表す、ポロとポン。ポロチケウ、大きな崖を「親なるもの 断崖」と訳しタイトルにした曽根はアイヌがあの世の入り口とした洞窟、アフンルパロを作品の中で登場させ、重要な役割を与える。

室蘭ゆかりの民俗学者で、アイヌで初めてこの国の大学教授となった知里真志保の展示がある。アイヌの神話、言い伝え、自然の中で生きる素晴らしさと、交易の民として鎌倉時代以降に蓄積した富、大富豪でなくても、食べられさえすれば、親のない子などをどんどん家に入れてしまうオビシテクルが現在の絵鞆小学校を作ったこと、案内人の近所のアイヌの知り合いの家庭の共通の子供の養育や教育を大切にする感覚。近代経済の中でのアイヌの姿が浮かび上がる。

一方、室蘭の港の多くを所有し、室蘭の経済基盤を作り、登別の鉱山開発、温泉開発を担った栗林家の当時の頭首、栗林五朔は民族学者である金田一京助歓待した。元室蘭出身のアイヌ、オビシテクルは室蘭で港湾の仕事で成功し、自ら集めたアイヌや和人の子供を教育していた私塾を基盤に小学校の分校を作った。オビシテクルと金田一自宅でもてなし引き合わせていたのは五朔だった。宣教師バチェラーは五朔の追悼の言葉で彼がアイヌとの付き合いを敬意を持ってしていたことを書き残している。オビシテクルの作った分校は後に絵鞆小学校となる。

 

 

 

  • 火山の街、近代のアイヌの経済的成功の跡が残る街、海の霧が旨い牧草を育てる街、登別

知里真志保を排出した知里(ちり)家と幌別の金成(かんなり)家は、深い縁戚関係があり、ともに、この地域の経済コングロマリットを作っていた。その財は明治中期の旧土人保護法以降、手足をもがれるように急速に滅びてゆく。

金成家を中心に幌別のアイヌたちが自主的に作った学校がイギリス国教会から派遣されたバチェラーの影響も受けながら運営された。このことが多くの文字を残すことになる。一時期、幌別のアイヌたちの子はすべてが自らのアイヌ語をアルファベットで正確な音を記述し、手紙でやりとりのできる状態にあった。英語、漢文、日本語のすべてを操るものもいた。

金成家から知里家に嫁いだノアカンテは知里幸恵、知里真志保兄弟の母である。ノアカンテの妹、イメカヌは日本名を金成マツという。経済力を失った知里家はキリスト教の布教の手伝いでわずかな収入のあったイメカヌのとイメカヌの身の回りの世話をしていた彼女の母、モナシノウクの許へ幸恵を幼女して送り出す。イメカヌは子供の頃、脚の自由を失っていた。幸恵は年老いてゆくノアカンテとイメカヌの世話をしながら、ノアカンテのユカラを深く胸に刻んでいた。金田一は幸恵を見出し、東京帝国大学の膝下、本郷の自宅に招いた。幸恵はノアカンテ、イメカヌから学んだユカラの中かから、幾つかを丁寧に日本語に翻訳した。

「その昔この広い北海道は,私たちの先祖の自由の天地でありました.天真爛漫な稚児の様に,美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は,真に自然の寵児,なんという幸福な人だちであったでしょう.」。知里幸恵はアイヌ神謡集の冒頭で、アイヌの暮らした北海道の幸せを語った。その上で「世は限りなく進展してゆく.激しい競争場裡に敗残の醜をさらしている今の私たちの中からも,いつかは,二人三人でも強いものが出て来たら,進みゆく世と歩をならべる日も,やがては来ましょう.」と決して滅びないアイヌの文化と幸恵の思想を力強く文字に固めている。

幸恵は「いつか現れる強いもの」の糧になる神謡を文字として残す。「アイヌに生れアイヌ語の中に生いたった私は,雨の宵,雪の夜,暇ある毎に打集って私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語の中極く小さな話の一つ二つを拙ない筆に書連ねました.」と19歳の幸恵が未来を輝かせて一生を終えた。

この書の最初の神謡はフクロウの神が、自分のしたことを謡うもの。没落しても誇りを失わない家のアイヌの子が放つ矢を受け止めるフクロウの神。真っ逆さまに落ちて、その肉体を彼の家に届けさせる。家人たちの感謝の祈りを受けたフクロウの神はその夜、肉体を離れて家中を飛び回り、この家を再び栄えさせ、また周囲からの尊敬を集める家族とした。そして、アイヌがフクロウの神を大切してくれるので、自分はその家族、村を大切に守り続けるという話だ。アイヌ自身が自らを信じて強くなれば、差別を受けないという非常に強い意志を感じ取ることができる。

その後、弟の真志保は、彼の方法でアイヌ文化の書き記す学問の中心を担う。

幸恵の死後、不自由な脚をおして、東京の金田一の自宅で自らの幼女の仕事を知ったイメカヌに決意が生まれた。彼女は「自分にできる仕事をする」と、幸恵の遺志を継いで、モナシノウクから聴き続けた知りうる限りのユカラを大学ノートに書き記した。子供のころ幌別で金成家を中心に経済的に自立したアイヌたちが建てた学校で学んだローマ字だった。この肉筆は未だに全てが日本語に訳しきられていない。彼女の日本名をとって「金成マツノート」と呼ばれている。幸恵、真志保、そして、イメカヌの存在がなければ、アイヌのユカラの世界、また、未来を見抜く力や近代社会に適応していたその経済的な能力、文化的な力が今に伝わることがなかったのかもしれない。

フクロウの神が謡うユカラの中から名前を取り「知里幸恵銀のしずく記念館」が有志の手で建てられている。この日は冬季の休館期間、登別の案内人は躊躇なく運営する皆さんのドアを叩いて、旅人を招きいれた。一行は、まず、金成家と知里家の家系図を観る。この二門がお互いに関係し支え合っていたことを知った。

海岸の平地から、クッタラ火山の噴火によりできた火山灰の台地の上に移動する。海からの霧の影響を受け、強い紫外線の当たらない冷涼な夏、室蘭、登別という消費地を持ち、酪農が栄えた登別。政府の農業政策の中で加護を受けずに、生き延びた芯のある酪農地帯。ここに、「この牧草は旨い。いいチーズができる」と札内小学校の跡を工場にした登別酪農館ができる。一行はここで、明日のランチのチーズを仕入れた。

 

 

  • この街は雪の賜物、松浦武四郎が決めた北海道の本譜、その地形、地質、川、気候が都市の未来を決めた。札幌

 

松浦武四郎が江戸幕府に「北海道を治める」ために推した札幌。大きな石狩川の支流、豊平川が作る氾濫原の上流の扇状地。水が湧き水害に合わず、川を通じて海にでられる広大な平地。北海道開拓使が置かれ、のちに北海道庁となった土地のすぐ横に建てられた老舗ホテルにたどり着く。降ったばかりの雪に灯りが輝いていた。

そして、札幌で新たな取り組みを始める起業家などを表彰する団体スマイルクラブの発足式に立ち会った。「200万人を超える、こんなに大きな街でも、こんな手作りで、コツコツと新しいことを始める人たちがいて、これが、この街の未来になって行くんですね」と、すでに札幌と北海道の経済を牽引する企業人やアワードを獲得した若者と知り合ってゆく。

そして、東京から来た文化人などが好んだ伝統のバーキャラベルでニッカやカクテルを飲む。

翌朝は猛吹雪。建物の中にいる分には真っ白な本当の冬をゆっくり眺めることができた。ホテルの支配人に席を用意され、自らの街での取り組みを伝え、このホテルからも海外の皆さんに日本全国に送客することがあることを実感した。

さて、朝のミーティングが終わると、嘘のように晴れた外に出る。エントランスの本郷新の彫刻を見た後、北海道庁の赤煉瓦庁舎、豊平川の伏流水が湧く睡蓮の池。ここを目指して遡ってくる鮭を得て、ここから海に舟を出したアイヌがいたこと、そのコタンを移動させた後、佐賀藩士島義勇が、ここを起点にした佐賀城下と同じ広大な水郷を作る計画だったのではないかと、史実と想像が楽しいところ。

本郷新の母子像を見ながら、雪景色の北海道庁を後にする。北3条通の道庁門前は北海道でも早々に舗装された道で、発掘の結果、玉砂利、アスファルト、木材による舗装の跡を土木学会が懸している看板の前で立ち止まる。車を止めて雪がたっぷり積もった銀杏並木を赤煉瓦テラス呼ばれる三井のビルに入る。ここにCoronというパン屋がある。映画「しあわせのパン」をプロデュースした伊藤亜由美さんが、制作の過程で知り合ったパンの職人たち学び、北海道の小麦を使った本格的なパン屋が札幌にないことを知り、起業し、どうしても札幌のメインストリートに北海道の小麦をと作ったパン屋だ。店長の向井さんの案内で、農研機構が15年の歳月をかけて作った秋まき初の硬質小麦「キタノカオリ」を主力に焼いたパンをかじる。香ばしい。嬉しい。店内には、札幌の基盤の一つとなった、4万年前の支笏湖の噴火でできた札幌軟石。頭上に吊るされる干した小麦の束。そして、亜由美さんは、次に取り組んだ映画「ぶどうのなみだ」を通じで、北海道のワイン造りを振興してゆく。「ワインに合うパンを作りたかったんですよ」という言葉の通りに、店内には道産のワインが並ぶ。

昨日登別仕入れたチーズ、今、Coronで仕入れたバケットを抱えた一行は快晴の光を浴びながら、大通公園を抜け、札幌の老舗百貨店の地下で、ハムやらなんやらを仕入れる。「何、デーパトなのに、安い。そして、質もいい」と大喜び。そこに、北海道の地域商社「北海道百貨」の社長の金輪さんが現れる。熊野古道で難しい小さな宿での外国人接客や、プランのない欧米人の対応を成功させ、40倍のお客様を迎えるようになったみなさんは、地域商社の難しさを知っているので、ここでまた一つの交流が起こる。

石狩平野を走る。高速道路から左手に煙を吐く工場が観える。そこは王子製紙の工場。かつて札幌を作った豊平川が流れ込んでいた場所だ。現在も江別市で、千歳川、夕張川が石狩川に合流する。松浦武四郎はツイシカリと呼ばれたここを通って札幌にたどり着いた。彼はツイシカリを淀川、桂川、鴨川の合流する伏見に例え、豊平川の上流を京都に例えた。石狩川の最上流は天塩川、渚滑川と通じ、川をたどる道で、オホーツクや宗谷を治められることがわかり、箱館奉行を札幌に移すことを提案したのであった。

 

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  • 米の生産日本一、小麦、玉ねぎ、なんでもできる農地、ぶどう畑のあるなだらかな丘、岩見沢

石見沢市の宝水地区は、大正15年。その前身の二の沢の谷が水没の決意をして生まれた集落であった。集落と言っても、10ヘクタールから40ヘクタールの田畑を有する農家の集落であるので、家は点在している。
 

「本当の光を観る「観光」。それは、地元で輝く人々に出会う事です」

室蘭の案内人 櫻井孝

室蘭リージョン

登別の案内人 荒川昌伸

登別リージョン