君待橋之碑

 

今は石碑にのみその名を留める君待橋(きみまちばし、きみまつはし)、その名の由来には諸説ある。

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1.

◎君待橋

寒川長洲大橋の邊、縣道を横断する小やかなる溝渠に架け設けたる石橋を君待橋と稱ふ、昔し藤原實方卿陸奥國へ下向せんとて此處を過ぐるに際し一首の和歌を詠めり


寒川や袖師が浦に立つ烟
君をまつ橋身にそ知らるる


治承年間千葉常胤源頼朝を此處に迎ふ、頼朝橋名を問ひしに、常胤の子胤頼和歌を詠じて是れに答へき、其の歌に曰く
 

見へかくれ八重の潮路の待橋を
渡りもあへず歸る舟人

 

これより橋名漸く顕はれ、今尚ほその名を傅ふ

出典:五十嵐重郎、『総水房山 : 房総名勝誌』、明33.4 (著作権切れ)
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2.

猪鼻臺と君待橋

「やよ、三河守、妾故郷に在りし時より君待橋と申す事は如何なる謂れの候ふぞ」真里谷三河守進み出で「左ればに候ふ。此の橋は古歌にも詠み人も知りたる橋にて候ふが橋の謂れに就いて昔語りの候ふ。昔と云へば遠き世の神代の頃にやありけん、當國菊間の里に阿比古(あびこ)と云へる勇士あり。其の頃此の邊に住居する蝦夷等を平げて威勢遠近に振ひしが當國貝塚の蝦夷の酋長に毛利(けり)と申す美しき娘あり。阿比古其毛利に懸想して貝塚の蝦夷と和睦をなし遂に毛利と割無き契を結びしが阿比古の妻嫉妬深きに由りて阿比古夜密に貝塚へ通ひける。此の寒川に橋無くして阿比古の渡るに暇とりしかば毛利之を憂ひて手下の蝦夷に橋を造らしめ毎夜自ら橋の上に出でて阿比古の来るを待つ然るに阿比古の妻其事を知り嫉妬の心止み難く或夜阿比古に酒を強ひて家に眠らしめ其身密かに阿比古の装ひを為し太刀を佩き馬に乗りて此橋へ来りしに毛利は阿比古と思ひ近寄りて言葉をかけたるを阿比古の妻一刀に斬って落す。毛利の父之を聞いて大いに怒り急に蝦夷の兵を傭して菊間の館へ押寄せしが阿比古は酒の酔醒めずして敵を防ぐに由無く館は忽ち攻め落とされ阿比古夫夫も討取られたりと申し傳へて候ふ。實に慎むべきは女の嫉妬なり。阿比古の妻は嫉妬故身をも家をも失ひて候ふ」と申しける言葉は御臺所の気色を損じ「イヤそれは妻の罪しては無し、阿比古と申す者が仇し心を外に持ちて自ら家を破りしなり、頼み難きは男の心よ」と義明公を顧みて打笑ひ給ふ、當座の言葉に心無けれども義明公は胸安からず、もしや思ふ人の此の邊りにあらぬかと密かに眺め給ふに橋の彼方に里人群れ聚ひ中より二羽の鳩の折々高く舞ひ上がる、義明公よりも御臺所は供人を顧みて「あれは何ぞ」と問はせ給ふ供人畏まり「あれは世に珍しき鳩使ひにて候ふ」御臺所「珍しのものや、早く是へ呼び候へ」ハツと答えて供人は鳩使ひが方へ走り去る。(村井弦齋「小弓御所」より)

出典:房総観光協会、『文壇人の観たる房総』、昭和8(著作権切れ)

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3.

君待橋の哀話

君待橋には次のような哀話もある。昔、この橋の周辺に人家がまれであった頃のこと、橋の近くに住む乙女が、長洲に住む若者と親しくなったということです。二人は、この橋が逢瀬の場所であったが、或る大雨の日に、この橋が濁流に流されてしまいました。その日も、この橋のたもとで若者と逢う約束をしていた乙女は、流された橋のたもとで茫然として、雨に濡れていました。そこへ若者が来て、対岸で悲しみにくれる乙女を見ると濁流を泳いで渡ろうとしたが、激しい流れにのまれてしまいました。これを見ていた乙女は、悲しみの余り、濁流に身を投げて若者の後を追いました。この悲しい物語を、後々まで伝えようと、里人が、この橋を「君待橋」と名付けたと言われています。

出典:日本伝説叢書