ここでは、上宮天満宮 について紹介します。

在所:天神町一丁目15-5

【ポイント】

①.祭神:主祭神;菅原道真公

➁.配祀神:武日照命(タケヒナテルノミコト);菅原道真公の祖神天穂日命の子

      野見宿禰命(ノミノスクネノミコト);土岐氏祖

③.社歴

 ・太古に武日照命が当地に降臨したと伝わる。

 ・正暦4年(993)、勅使菅原為理が九州に贈従一位の詔を伝え帰途この地で牛舎が動かなくなってこの地に道真公を祀ったのが始まりと伝わる。

  元々、この地には小墳丘(宿禰塚古墳)の上に野身神社があったが、天満宮の創建で吸収されたものと思われる。

 ・永禄11年(1568)、芥川山城の三好長逸を討伐の際、織田信長が当地に本陣を構える。

 ・天正18年(1590)、山崎の戦で勝利した秀吉が社地を寄進し、社殿を修造。

 ・明暦2年(1656)、高槻藩主・高山直清が拝殿と大鳥居を再建。

 ・明治12年(1879)、「野身神社」に改称、太平洋戦争後「上宮天満宮」の名に復す。

 ・平成8年(1996)、放火により秀吉造営の本殿焼失。

 ・平成14年(2002)、日本初の竹製で本殿再建。

【関連写真】

 R高槻駅北口に面した大鳥居2023_10_04 金只   西国街道に面した入口2023_10_04 金只   

 西国街道に面した標識(上宮天満宮)2023_10_04 金只   階段途中の二の鳥居2023_10_04 金只   

 階段最上段の三の鳥居2023_10_04 金只   山上の参道と広場2023_10_04 金只   

 手水舎2023_10_04 金只   社務所2023_10_04 金只   

 絵馬殿2023_10_04 金只   絵馬殿内部2023_10_04 金只   

 天満宮内陣入口2023_10_04 金只   神牛2023_10_04 金只   

 左狛犬2023_10_04 金只   右狛犬2023_10_04 金只   

 拝殿&本殿2023_10_04 金只   竹製の本殿2023_10_04 金只   

 神楽所2023_10_04 金只   四社殿2023_10_04 金只   

 守護天神2023_10_04 金只   厳島神社2023_10_04 金只   

 梅林2023_10_04 金只   標石(上田辺町御旅所)2023_10_04 金只   

 案内板(上田辺阿智と天神さん)   社殿ご案内図2023_10_04 金只   

 

 【補足説明】

①.現地案内板(鎮座社・古墳・文化財)

 ・鎮座社

  上宮天満宮

  野身神社

   皇大神社

   厳島神社

   春日社

   日吉社

   金毘羅社

   稲荷社

   荒神社

・古墳

 野見宿弥古墳

 車塚古墳(隣接)

・文化財

 天神縁起絵巻

 上宮型狛犬

 大神鏡

 三十六歌仙絵額

 灯篭 33基

➁.現地案内板(上宮天満宮;由緒)より

 日の神、武日照命の天降って鎮座された此れの大吉の杜、日神山一帯は弥生人の住居跡として銅鐸も出土し、南北に並ぶ四古墳のうち、中央の円墳上には式内古社の野身神社がある。此地は「日本書記」が古代祭儀としての埴輪や相撲の逸話を記した野身宿禰を千数百年も前から斎き祀ってきた島上郡野身郷である。彼の率いる祭祀者一族、土師氏は何百年か後に菅原道真、大江〇房始め平安時代に於ける史学、文芸学舎たちを次々に生み出すが、殊に右大臣にまで昇った道真公は、然しその後天皇廃立に関わったとされ九州へ追放される。その死後百年近い頃、正暦4年(994)正一位左大臣の位を遺贈する勅使として菅原為理が大宰府へと赴いた。霊代など奉じての帰途、芥川を遡り当地の上田部(市役所西)に上陸し領主近藤氏の城館に宿った。ところがいざ出立となると輿が動かず、こを先祖と共に留まりたい霊意と拝察して、里人が日神山上に天満宮本殿を造営し改めて三神を併祭し奉った。実際の創建はこれより50年も早く、京都北野社鎮座以前であり、全国天神社のうち2番目の古社とされている。

 戦国の天正年間、豊臣秀吉は当社参道「天神馬場」に本陣を置き、明智勢を山崎天王山に討った。その戦勝を感謝して、後に秀吉は社殿を美々しく修造する。これは平成8年に自己により失われる。

 江戸初期には、高槻藩主永井直清が拝殿を設け大鳥居を建立、時の天台座主親王天松院筆の神額を奉納した。

 古来、近郷の三島地方はもとより遠く京都、大阪始め北摂能勢や北河内方面の崇拝を集め今に至る例祭「初天神」は、延々と露店の連なる京阪神きっての民衆的大祭である。

③.現地案内板(竹の本殿)より

 この建物は、柱、壁、屋根の殆どが「竹」でつくられております。竹はわずか5年で成竹となり、再生可能な木質系資源として国連レベルでも注目を集めております。

 弊社は2ヘクタール8千本の竹林を持ちその整備と資源活用を通じて全国各分野の専門家集団と関わり世界で初めてとされる「竹」による外部構造物を完成させ建築/行政/環境分野で反響を呼びました。

 10年をメドに屋根の葺替えが予定され耐用期間の長期化を計っております。

 尚、天正18年(1590)豊臣秀吉により建てられた旧本殿は、平成8年11月7日深夜裏山から侵入した少年5人組の賽銭狙いで放火焼失しました。

 弊社の諸システム導入による徹底「防犯」体制架空率の景気となった出来事です。

③.現地案内板(上宮型狛犬)より

 本殿左右一対の狛犬は、宝暦9年11月(1759)に芥川在石大工・西田新九郎正義により作られたもので、高槻市内最古のものである。

 細かい技を生かすことが出来る柔らかい砂石を素材にしたこの作品は、浪速狛犬と総称される関西圏の多くのものの内、獅子舞の獅子頭に似た四角い顔と毛筋を、ハッキリ表現した新しいデザインにより上宮型狛犬として主流となった。

 その改良型として、三輪神社(高槻市)の三輪型狛犬(大明5年(1788))がある。

 狛犬はライオンをモデルとしたもので、大阪商人による寄進を地元有力者が取次ぐという形で、鎮守社に奉納されたケースが多い。

 龍谷大学教授 小寺慶昭先生著作参照

④.現地案内板(守護天神)より

 ここはねこ、いぬ、ことり・・・、いわゆるペットとして人間生活に深く関わってきた小動物を守り、祈る神社として建立されました。

⑤.現地案内板(上田辺町と天神さん)より

 古代にあっては、天満宮の前から現在の下田辺町に至る広大な地域は島上郡濃味(ノミ)の里・・・の一部にあたり、神田部・中田部(現在の出丸町近辺)・下田部とつながり皇室御料田を耕作する田部氏が治めていました。弊社と氏神・氏子の関わりがあったところです。

 5月5日の夏祭りは神輿渡御の氏子祭礼が行われ、上田部町のお旅所を経て下田部天満宮まで行列が続いた時代もありました。本神輿はもとより立派な子供神輿も寄進され、今では神輿蔵に安置されています。

 平成27年にお旅所の地が返還されたのを機会に、蔵は大改修され、古くからの地域の信仰と思い出の場所として公開見学も可能となりました。

【参考情報】

Wikipedia:上宮天満宮