ここでは、久修園院地球儀 について紹介します。
在所 | 枚方市中之芝二丁目46 |
種別 | 市指定文化財 工芸品 |
指定 | 平成14年04月01日 |
所有 | 久修園院 |
【観光ポイント】
①.宗覚律師制作
②.和紙製の球体
【関連写真】
【補足説明】
①.展示品の説明板より
地球儀の世界観
大地が球体であるという説は、マゼランも世界一周(1519-22)によって証明され、西洋ではすぐに地球儀が商業生産され、世界図も次々と書きかえられていきました。
西洋と接触するまでの日本人は、世界の中心には須弥山(しゅみさん)があり、人間の住むのはその南に存在する大陸「せん部州」であるという仏教的な世界観を持っていました。日本人にとっての世界は日本・中国・天竺(てんじく=インド)の三國で、中国・天竺のある「せん部州」から、海を隔てて日本があると考えていました。
日本には江戸時代以前に地球儀や世界図がもたされており、宣教師の記録から、織田信長が両方を所持していたことは明らかです。江戸時代になると、世界図が日本国内で出版されるようになり、人々は西洋世界を知ります。それでも仏教的な世界観は生き続け、その中に西洋世界を融合させようとしました。宗覚の
地球儀はその代表例です。
久修園院と宗覚律師
久修園院は、行基が開いた49院の一つとされる名刹で、新亀2年(725)の創建とされます。慶長19年(1614)に焼失しましたが、と宗覚律師(1639~1720)により再興されました。
宗覚は京都に生まれ、幼い頃から音楽、医学、武芸などを学んで才覚を表しましたが、24歳のときに仏門に帰依し、延宝5年(1677)に大阿闍梨となりました。久修園院に入寺したのは延宝7年(1679)のことで、享和5年(1720)に亡くなるまで、同寺の住職を務め、宗教活動を行いながら、書物を著わし、仏画や絵画を描き、仏像を彫刻し、楽器を制作しました。博識に富み、多才多芸に秀でた高僧であったことがわかります。
宗覚律師の名はあまり知られていませんが、宗覚制作の両界曼荼羅図(東寺蔵)が国の重要文化財に指定されていることからわかるように、その業績は高く評価されるものです。
江戸時代の天文学
江戸時代の天文学は暦学ともよばれ、毎年の暦を作成するために、天体観測して、太陽・月・惑星の位置を推算し、日月食を予測することを研究していました。
日本の暦は、古代から延々と中国暦を採用してきましたが、貞享(じょうきょう)3年(1685)に、渋川春梅(はるみ)(保井算哲(やすいさんてつ))によって、はじめて日本人の手になる改暦がなされ、幕府は春梅を初代の天文方に任じました。当初の日本の天文学は天文方を中心に進められましたが、江戸時代の中頃には、大阪の町人であった間重富(はざましげとみ)が活躍するなど、民間からも優れた学者があらわれました。
天体を観測したり、教えたりするには、望遠鏡、渾天儀(こんてんぎ)、天球儀(てんきゅうぎ)などが使われ、江戸時代の天文学者たちは、これらの器具も製作しました。
大地が球体であるという説は、マゼランの世界一周(1519~22)によって証明され、西洋ではすでに地球儀が商業生産され、世界図も次々と書きかえられていきました。