ここでは、千種庄右衛門彰徳碑 について紹介します。

在所:幸町14

【ポイント】

①.寝屋川市国松町の水害防止のために、伏古越樋を設置した設樂代官所の役人の碑

【関連写真】

 彰徳碑南入口2023_05_25 金只   彰徳碑設置広場2023_05_25 金只   

 彰徳碑全景2023_05_25 金只   彰徳碑2023_05_25 金只   

 

【補足説明】

①.現地案内板より

  千種庄右衛門と伏古越樋

 国松町は、近世には讃良郡(ササラコオリ)国松村と呼ばれいました。この地の悪水は、寝屋川と南前川の合流地点付近で寝屋川に流れていました。しかし、寝屋川の川床が蒸留からの土砂でだんだん高くなるに従って悪水の排水がわるくなり、大雨があると領内に逆流して田んぼや畑が冠水してしまう状態でした。

 江戸時代中ごろ、国松村は幕府の直轄地で近江信楽代官の支配下にありました。当時役人であった千種庄右衛門は、国松の人々苦しみをみかねて享保9年(1724)寝屋川の川床をくぐる伏越樋(フセコシヒ)を設けて、友呂岐悪水路に見ずを落とすことに成功しました。

 しかし、用水・悪水などの関係の複雑さから隣村の三井村との紛争が絶えませんでした。千種庄右衛門はその責任をとって自害したと伝えられています。昭和28年(1965)には行誓寺(ギョウセイジ)本堂前に「千種庄右衛門大人(ウシ)之碑」、昭和40年(1965)には伏越樋のある堤上に「千種庄右衛門彰徳之碑」が建立されました。

 千種庄右衛門については、行誓寺には「智久磋晶右衛門(チグサショウウエモン)霊」と記した位牌と江州信楽の役人と云う伝承があるのみでしたが、平地の旧家の子文書に享保9年にこの悪水の工事があったことが明らかになりました。

    寝屋川市

【参考情報】

インターネット:千種庄右衛門碑

Localwiki:行誓寺