駒ヶ岳(こまがたけ)、甲斐駒ヶ岳(かい―)、東駒ヶ岳(ひがし―)

  • 南アルプス北部の標高2967mの山で,山梨県(北杜市)と長野県(伊那市)の県境に位置する.

名称について

  • 甲斐駒ヶ岳,あるいは略して甲斐駒とも呼ばれる.
  • 特に長野県側(伊那谷)からは,西駒ヶ岳(木曽駒ヶ岳)に対して,東駒ヶ岳,あるいは略して東駒とも呼ばれる.
  • この山から黒川が出るので黒川岳(くろかわだけ)ともいう.
  • 白崩山白崩岳とも言われる.「しろくずれ」または「しらくずれ」と訓じ,「ハクホウ」と音読みされた記録もある.
  • 赤河原岳とも言われ,標高6840尺(2072.5m)とされたこともあった.
    佐野重直 編『南信伊那史料』巻之下,佐野重直,明34

伊那市西箕輪から見た駒ヶ岳(2023/11/19撮影)

 

近世から近代にかけて

  • 1706年(宝永3)秋に荻生徂徠は仕えていた柳沢吉保のルーツでもある甲斐国武川の柳澤郷や,柳沢の祖先が隠れたとされる石空川上流の「餓鬼の嗌」への調査旅行をしており,その様子を『峡中紀行』にまとめている.その中で,荻生は,宮掖(宮脇)村に宿泊した後,山高村,柳澤郷に立ち寄り,信濃との境まで訪れ,「駒嶽」について記している.山の様子について,植生がなく「不毛」であることを捉え,熱をもった石が畳のように割れて起き上がる様子にたとえて「焦石疊起」と描写している.駒ヶ岳の山稜をなす岩石の角が数えられるぐらいはっきりしており,山の形勢が「獰然」として凶悪であるとして,芙蓉峰(富士山)とは,似ていないと評価している.山の上には祠や堂宇はなく,山わろのような「山䢖木客」に逢ってしまうので,地元の住民は,あえてこの山に登らないとしている.また,昔,正直でなために愚かであり,勇敢とも言える一人の者がいて,三日間の食料を携え,山頂を踏んだとき,その者は「老翁」を見たとしている.老翁はその者を責め,この山の上は仙人が修行する「仙福地」であり,あなたたちのような若輩が遊びにくるところではないとして,その者の髪をつかんで岩の下に放り投げ,その者はぼんやりとして自宅の裏山にいたという挿話を記している.
    『甲斐志料集成』第1,甲斐志料刊行会,昭和7
  • 1814年(文化11)に成立した『甲斐国志』によれば,「駒カ嶽」からは林産物が若干納められており,山の上が甲斐と信濃の境であるとしている.また,石室が二箇所あるとして,下の「勘五郎ノ石小屋」と上の「一條ノ石小屋」を挙げ,それより上は数十丈(100m程度か)の絶壁で登ることができず,樵夫なども入ることができていないとしている.ただし,遠くから見ると山頂の「巌窟」の中に駒形権現が安置されているところがあるとしている.
  • 1816年(文化13)に,小尾権三郎が登頂したとする記録があり,駒嶽講ではこれを開山としている.開山の当時,横手村では駒ヶ岳には邪神がいるとされていた.権三郎は,修験道の行者として,最初は弘幡行者(または鐇弘行者)を名乗っていた.1817年(文化4)に山役の常三郎,亀八,善八,喜左衛門,定右衛門,清八,作次,高次郎,清三郎とともに駒ヶ岳登拝のための登山道を整備し,吉野山の桜本坊に権三郎による開山が認められ,1818年には延命行者の号を賜ったとされる.1819年(文政2)に25歳で死没したとされるが,死因については伝わっていない.死後,1845年(弘化2)には,駒嶽講の信者によって駒嶽開山功徳院,大先達功徳院と追号され,威力大聖不動明王とも呼ばれた.
    宮崎吉宏 著『甲斐駒開山』山梨日々新聞,2005
  • 横手村では,山田家が駒ヶ岳の入山を管理しており,山田孫四郎久儀が小尾権三郎(開山さん)の登頂を許可し,支援したとされている.孫四郎の次男の嘉三郎は,駒嶽講の結成の中心的役割を果たし,二代開山嘉貴として,1850年(嘉永3)に横手口登山道に沿って三十三体の観音像を勧請したとされる.三男の孫四郎は,三代開山久休として駒嶽講の布教に勤めたとされる.横手の駒ケ岳神社の総代長は山田家が担ってきた.
    宮崎吉宏,前掲書
  • 藤森栄一は,権三郎が駒ヶ岳に登頂した際に「弥陀来迎」を拝んだとしており,権三郎が見た弥陀来迎は,自らの影でありブロッケン現象であると推測している.また藤森は,1739年(元文4)に東山田村入定したとされる善心坊が駒ヶ岳登頂を目指したという伝説を聞き書きしている.
    藤森栄一 著『遥かなる信濃』学生社,1970
  • 1824年(文政7)に甲斐御支配所の命令で駒ヶ岳への登山が差留となった.麓の村などによる神仏の石造物の勧請が盛んになり,石造物には銘(印)があるため村落間の争論を避けるための登山差留とされている.
    宮崎吉宏,前掲書
  • 登山差留を受け,「御裏山」ともされる入野谷郷から白崩嶽へ登山する登路の開山が企図された.1824年(文政7),延命行者の「第一門弟」を称する増沢兵左衛門(諏訪郡今井村,人力不動,松生翁)は,小尾権三郎の父である小尾今右衛門(宝力不動)とともに,入野谷郷の黒河内村の有力者である黒河内谷衛門(谷右衛門)と面会し,案内人として小松利兵門(利兵衛)が推薦されている.増沢を先達として,小尾,浜伝右衛門(間下村,伝左衛門,位力不動),武居八右衛門(西堀村,新澤不動),山田金右衛門(衛門,西山田村,蓮玉不動),鮎沢治左衛門(西山田村,伽羅滝不動)がこの開山に加わったとされる.
    宮崎吉宏,前掲書
  • 別の記録によれば,1835年(天保6)頃に諏訪郡西山田(現在の岡谷市長地)で材木と石材の商売を営んでいた山田恒治は,駒岳開祖の延命行者の遺志を継ぎ,鮎澤治右エ門と今井村の増澤平左衛門とともに白崩口を開山したとされる.山田恒治は玉蓮と号していた.鮎澤治左エ門(治右エ門?)は,神仏を崇信しており,1845年(弘化2)に院号を許されてから白崩口の開山の一行に加わった.治左エ門は,白崩口からの登山の先達をして一派閥をなし,の規模は数百人に及んだとされる.
    飯田好太郎 編『諏訪史料』巻之3,諏訪史料編纂所,明30-31
    飯田好太郎 編『諏訪史料』巻之4,諏訪史料編纂所,明30-31
  • 1840年(天保11)に写され,黒河内谷右衛門が所持していた「御代官江差上候絵図面」(黒河内史料)には「白崩岳」の記載があり,甲斐国白須道から至る「駒ヶ岳」と表裏の関係があるように示されている.原図は1690年(元禄3)の年号が記されている.
  • 1875年の記録には,甲斐で驪駒山,駒岳(こまがたけ),鉄驪という三つの呼び名が記され,信濃で白崩(しろくづれ)山の記載がある.
    大槻東陽 編『地名類纂 : 漢語插入』京屋常七等,明8
  • 1881年(明治14)に高橋白山は,伊藤瀬平と白崩岳に登り,翌年,「登白崩岳記」を記している.(「登白崩岳記」は下記に全文と意訳を掲載)
  • 1888年に陸軍が編纂した地図には,「仙丈山」の東(甲斐側)に「駒岳」が記され,西(信濃側)に「白崩山」が記され,別の山として記載されている.
    陸軍士官学校 編『兵要地誌』大日本之部 巻之26,内外兵事新聞局,明21
  • 1897年の地理書では「甲斐駒ヶ岳」と記されている.
    山上万次郎 著『新撰普通地理』日本之部,富山房,明30
  • 1899年8月に白崩岳に登頂した中山音彌は,「白崩岳採集の記」を記しており,山頂に測量台があり,その周りに石碑や銅製の観音像があったことを報告している.
    『信濃博物学雑誌』(1),信濃博物学会

延命行者の生地から見た駒ヶ岳(2024/02/03撮影)

北杜市長坂町から見た駒ヶ岳(2024/02/03撮影)

 

近代登山以後

  • 1905年(明治38)頃には甲斐駒ヶ岳と白崩山が同一の山かどうかで日本山岳会の創立メンバーの間で議論があり,1907年(明治40),鳥山俤成,河田黙武田久吉,梅沢親光の4人が長野県側からの実地踏査を行い,同一の山であることが確認された.この時,小島烏水は別の山であることを主張し,武田久吉は同一の山であることを主張していた.
    『山岳』2(1),日本山岳会,1907-03「東駒ケ岳と白崩山とは同物か將又異物か」,『山岳』2(2),日本山岳会,1907-06「白崩岳駒ケ岳異同辨」
    小島烏水「日本アルプス早期登山時代」

    岳人編集部 編『日本アルプス : 写真集』,中日新聞東京本社東京新聞出版局,1974
  • 鳥山らは,この登山で7月24日から黒川を遡る行程で,伊澤金治(油屋),志賀順蔵,森末松,篠田政雄(大先達)の4人の人足と黒河内で合流している.黒川の集落から半里足らずで「前宮」とも呼ばれる白崩神社に立ち寄っている.その後,蛇紋岩が岩壁をなしている「雄鷹岩」を経て,戸台の集落の手前で「乞食岩」を見ている.戸台から一里ほど上流には,行者の垢離場となっている「三つ石」があり,さらに一里上流には赤河原を経て大岩石の陰で雨露をしのぐ「大岩の小屋」があって,一行は宿している.
    『山岳』2(3),日本山岳会,1907-11
  • 鳥山らは,7月24日から駒ヶ岳を目指して赤河原の上流へと歩を進めている.大岩の小屋の上流には「不動尊」や「行者某」と刻んだ石碑があり,第二の垢離場とされていた場所を過ぎている.「七丈の滝」と名付けられた滝は,表山(山梨県側)の七丈滝と姉妹滝になっていると記している.刀利権現という経由地は長野県側の六合目としており,巌の横穴は宿泊や避難にも適当な場所としており,この地点から摩利支天への「お中道」がかつてはあったとしている.山頂には巨岩があり,測量台の近くには馬頭観世音の石碑や銅像があり,測量部の作った石小屋は崩れていたと記録している.山頂の下には「水天雨」があり,小丘は「摩利支天」として,石碑や石像があり,白崩山の奥の院であるとしている.地獄谷と呼ばれる長さ15間の鎖場を過ぎ,降りきったところに「地獄谷の御大将アルマヤ天狗」が祀られていると書き留めている.その先で「屏風岩」「ハゲの岩小屋」を経由し,黒戸山を回り,尾白川の渓流まで降っている.
    『山岳』3(1),日本山岳会,1908-03
  • 1906年にまとめられた『日本山岳志』には,上伊那郡美和村大字黒河内からの登路があり,白崩山の山頂は「駒嶽」と一つになるとされている.また,山頂の最高点を「剣ヶ峰」としている.
    高頭式 編『日本山岳志』博文館,明39
  • 1912年版の小島烏水の『日本アルプス第1巻』では,巻頭により正確な「白峰山脈臆測図」を収録し,解説において甲斐駒ヶ岳と白崩山が二つの山に分けていた地質調査所出版の「甲府図幅」(20万分の1)を批判している.
    小島烏水 著『日本アルプス』第1巻,前川文栄閣,明治45
  • 1917年の記録では,長野県側から登ったとき,三合目が七丈滝,六合目が県境で,七合目が地獄谷,八合目からハイマツがあり,九合目には谷間に残雪があるとされている.
    津島壱城 著『信濃の山』松陽堂書店,大正5
  • 1921年の記録には「東駒ヶ嶽と呼ぶ九千七百八十六尺[2965.5m]の白崩山の前嶽」とも記されている.
    三澤啓一郎 編『信濃國勢調査要覽』信濃民報社印刷部,1921
  • 1920年頃の長野県の小学校地理の教材解説によれば,東駒ヶ嶽(2966m)は赤石山脈(日本南アルプス)の他の山と異なって,雲閃花崗岩からなっているとされ,長野県側からは白崩嶽などとも呼び,いつも雪を頂いているように見えるように思うとされている.
    帝国教育会 編『修正小学地理書府県別教材解説』巻1,帝国教育会,大正8-10
  • 1939年頃の長野県の地誌によれば,東駒ヶ岳(2965.6m)は,前岳と白崩山の別名があり,高遠を登山口としている.頂上には,大己貴命馬頭観音の銅製の像が二体あったとされる.
    長野県誌編纂所 [編]『躍進長野県誌』本所出版部,昭和14
  • 1941年(昭和16)に行われた海軍省山岳会水交社で行われた南アルプスを語る座談会で竹澤長衛は駒ヶ岳について,次のような発言をしている.「南アといえば駒ヶ岳が代表でしょうが,是は甲州側で表山,信州側では裏山といっております.今から百何十年前とかいいますが,信州諏訪郡上古田という処で生れた人で,出羽のお大名の所に釜炊奉公をしておった人………神通力を持った人で,雀がほしいと思えば訳なく捕えてくる………まるで忍術使いみたいな人でしたが,その人が駒ヶ岳に登ったのが最初です.この人は二十四才の若さで亡くなったといいますが,その原因は,ある行者があの男を生かしておいては自分の商売が上がったりになる.何しろ神通力を持っているから自分の行者の職業をとりあげられてしまうことを恐れて,祈り殺したのだというんです.体の全部の穴から濃(膿?)が出て死んでしまった………神通力を持っていても自分が祈り殺されることはわからなんだらしい………」として,1940年代当時の小尾権三郎による駒ヶ岳開山についての口伝を語っている.
    上伊那郷土研究会『南アルプスの主竹澤長衛』1960
  • 1997年8月に,当時,日本共産党委員長であった不破哲三が登頂している.
    不破哲三,2011年,『私の南アルプス (ヤマケイ文庫)』,山と渓谷社
  • 1997年(平成9)には,山頂に43基の石造物があることが確認されている.
    長谷村石造文化財調査委員会 [編]『長谷村の石造文化財』長谷村教育委員会,1997

栗沢山から見た駒ヶ岳(2022/08/30撮影)

 

高橋白山による登白崩岳記

「登白崩岳記」(明治壬午稿)
辛巳秋。同伊藤子剛(瀨平)。登白崩岳。岳在(上)伊那郡極東。以其險絕。登者甚希。因欲識行程以啓後遊者。(康曰。通首記里数。達結尾。)九月五日。蓐食而發。經非持。溝口二村。出于三峰川東岸。二里二十四町。至黑河內村。路爲兩岐。右通鹿鹽。左達白崩。傍小黑河而東。有一小村。倚坂架椽者十有八戶。名曰黑河。又行二十八町。至戶臺。途見二奇石。(其一。)高七八間。長六十七間。全岩蛇紋。頂有白斑形狀似鷹者。(因)曰雄鷹岩。(其一。)隔川而出於林木表。基小頂大。爲張傘状者稱傘石。戶臺。戶三。口十二。有老梅一株。樹心空洞。苔蝕外皮。榾柮槎枒。(康曰。叙及梅樹。記筆綽々。)左折入東溪。有二家。日藤戶袋。子剛(瀨平)曰。有久保田兼松者。與余同甲。學于黑河內校。往來四里許。未甞懈怠。縣令永山盛輝。褒之以物。日已下舂。因宿久保田氏。六日晨起。大霧不辨咫尺。出屋日已高。行五六町。有白岩螺岩。對峙路傍。白岩至三石。數百步間。河水入地。三石以上。清流隱見。游鱗潑刺。漁者轉巨石。則水立涸。捕獲甚多云。溯流一里三十町。過雄勝。地藏二岳間。抵白崩麓。山皆白沙。松皆五葉。景色甚奇。至是河水見二派。東流者。爲甲斐早川。西流者。即小黑河也。源窮而山如削。危石壓頭。勢將墜下。步々砂崩石轉。愈上愈險。矮松着地。如蔓草。至山腹不復見寸木。(唯見)萬岩飛起指天(耳)。未至頂上八九町。有平處就憩(焉)。西北望鵝湖。熒々如(小)星。東南姑麻。白峰。鳳凰諸岳。遙連駿遠國界。子剛(瀨平)曰。頂上極高。過午必陰。即皷氣而上。達則雲既合。迅風拂衣力極健。置脚不(能)安。(康曰。極力寫高峻状然亦實事。)(即謁岳神廟而下山。兜城至岳麓。約五里十町。從麓以上。里數不詳。按袖時儀。經過二時三十分(也)。
(雲外日。寫景不繁不簡。前後縫界。針線相通。)
(省軒日。叙景詳悉。有霞客之致。)

【意訳】 
「白崩岳に登った記録」(1882年(明治15)に原稿にする)
1881年(明治14)の秋に,伊藤子剛(伊藤瀨平)の同行により,白崩岳に登った.この岳は伊那郡(上伊那郡)の一番東にあり,それは余りにも険しいので.登った者も本当に稀である.どのように登ったらよいのかという行程を知ることで,これから登って遊ぼうという者を広げていくことができればいいと思う.(康がいうには,)そんなわけで9月5日に,寝具や旅行食を準備して出発した.非持と溝口という二つの道を経て,三峰川の東の岸に出て,そこまで10.5kmぐらい進むと黒河内村に至る.路はそこで両方に分かれて,右は鹿塩を通り,左は白崩に達する.小黒川に沿って東へ進むと一つの小さな村がある.傾斜に寄りかかるようにして屋根を支えている家が10のうち8戸はある.村の名前は黒河という.そこからまた3kmほど行くと戸台に至る.その途中で二つの変わった石が見える.(その一つは)高さは13-14m,長さは122mで岩の全体が蛇紋を帯びていて,岩の頂上には白い斑があり,形状は鷹に似ている.そのため雄鷹岩という.(その一つは)川を隔てて林と木の表に出ており,元の方が小さくて頂の方が大きい石がある.傘が張り出したような状態のために傘石と称している.戸台は3戸があって,12人がいる.老いた梅の株が一つあるが,その樹木の芯は空洞になっていて,外の皮は苔むしている.木の切れ端や木の枝が入り組んでいる.(康がいうには,)左に折れて東の渓谷に入っていくと,二つの家がある.藤戸袋というところである.子剛(瀨平)がいうには,久保田兼松という者の家であるらしい.私と同じ申?年で,黒河内校で学んでおり,往復15.7kmぐらいを通っていた.これまで全然怠けたことともなく,県令の永山盛輝は,彼の行いを褒め,いい物を与えた.太陽はもうすでに沈もうとしていたので,久保田氏に宿を借りた.6日,朝起きるとものすごい霧ですぐ前のものを見分けることもできない.建物を出るとすでに日は高くなっており,700mほど行くと,白岩と螺岩があり,道端に向かい合って対になっている.白岩は三石に続いていて,その間は数百歩ぐらいである.川の水は地中に潜っている.三石より上の方では,清らかな水は隠れて見える.水の中に遊ぶ魚の鱗はいきいきとしている.漁をする者は,大きな石を転がして,川の水を断って空にすることによってとても多くの魚を捕まえて取っているという.川の流れを遡って7.2kmほど行くと,雄勝というところを過ぎる.そこは地蔵の二つの高山の間でもあり,白崩の麓にもあたっている.山は全部が白い砂で,松は全部が五葉である.景色はとても変である.ここまで来ると川の水が二手に見える.東に流れるのは,甲斐の早川になる流れである.西に流れるのは,すなわち小黒川になる流れである.こうした川が源を窮めようとすることで山が削られるようでもある.危ない石が頭の上を圧していて,その勢いはまさに下に墜落しそうなほどである.歩けば歩くごとに砂は崩れ石は転がっていく.いよいよ上へ上がってくると,いよいよ険しくなってくる.丈が低い松は地上に着くようで,つる草のようである.山腹にはちょっとも木が生えていない.ただ万の岩が飛び起きて天を指すように見えているだけである.まだ頂上には至っていない.900-1000mほど行くと平なところがあってそこで一休みする.西北の方角には「鵝湖」とも呼ばれる諏訪湖が見えている.星のように輝く小さな光が見えている.東南には姑麻,白峰,鳳凰など諸々の山が見えている.さらにその遙か先は駿河国や遠江国の境まで連なっている.子剛がいうには,頂上はとても高く,正午を過ぎると必ず日陰になり,そうすると山にあった大気はたたかれて振動するようにして上がって,そうすると雲にまで達して一つになる.そのため激しい風が着ている衣服を吹き払い,風の力はとても力強くなる.脚を置くの安全にというわけにいかなくなる.岳の神様を祀る施設にお目通りをして,山を下る.兜城のある高遠で山の麓に至り,約20.7kmの里程にはなるが,麓より上の実際の距離はよく分からないところである.戻ってきたのは,懐中時計で考えてみたところ,深夜2時30分は過ぎていた.

 

地質について