洗堰チームの行程
地元のガイドさんのお話を聞きながら、以下のコースを巡った。水害との戦いの歴史を垣間見させていただいた。
神明神社(しんめいじんじゃ)
大榑川がまだ荒れていた頃にあった、昔の堤防の上に神社が建っている。その頃の堤防の高さがわかる。
境内は広く地盤も固い為、洪水時の助命壇としても機能した。
創建は永正2年(1505年)。言い伝えによると、上流の方の村から洪水によって流されてきたご神体を祀ったのだという。
祭神は、治水の神様でもある天照大御神である。
このあたりの神社は、堤防が切れた所にあるケースが多い。
毎年7月にぞうすい祭が行われる。増水と雑炊をかけたもので、水害から安全を祈願しているもの。
境内には、大きな椋の木があって、昔の子供たちは、実を取って食べていたと、ガイドさんが教えてくれた。
境内には、桑の実もあり、やはり子供のおやつであった。
神明神社(しんめいじんじゃ)の詳細
第一の鳥居
神明神社の第一の鳥居である。境内から少し南に下ったところにある。
多度神社
驚いたことに、この神社では、雨乞いもしていたという。水量の多い大榑川でも、日照りが続くと干上がった。
昔の人は、水が多すぎても少なすぎても困っていたのである。
また、川の水が少ないからといって、上流の村落(上郷)が無計画に井戸を掘ると、
下の方の村落(下郷)の水位が上がり水害の確率が増えてしまう。
このため、地区ごとに掘れる数を制限する、株井戸という制度が生まれた。井戸を掘るためには、この権利を買わなくてはいけない。
現在は、揖斐川からの用水路が整備されたので、渇水の問題はなくなった。
なお、昔は多度神社のあるあたりから、大榑川を対岸に渡る為の渡船が出ていたという。対岸に見えた地蔵尊の祠が、その頃の名残を残していた。
(関連情報)
・多度神社は、4つの地域(四郷(よごう))のコミュニティの氏神にあたる。
・堤防が撤去された後、堤防の土は、池や堀、沼などを埋め立てるのに使われた。
・大榑川(おおぐれがわ)は昔は水量もあって、水遊びなどもしていた・
(関連用語)上大榑、大榑、下大榑新田、西の川、四郷(よごう)、五反郷
片野記念館
地元の大庄屋を解放した記念館。
石垣を作り土地を高くし、その上に建物が建てられている。
写真を見て分かる通り人の背丈より高いが、明治29年の洪水では、石垣を超えて水が来た。
片野家は、私財をはたいて治水に協力したのだという。
槇の生け垣
現地のガイドさんによると、洪水が起きると上流からがれきや生活用品などが流れてくるが、このような槇の生垣がそれらをブロックしたのだという。外から流れてくるものをせき止めると同時に、家の中の家財道具もこの生け垣によって外に流出しない効果もあったらしい。このお宅の隅には小さな祠があった。
観音堂
今では埋められているが、この観音堂の周辺には大小20あまりの池や沼があったらしい。
昔、洪水の時に、この場所に1.5mの観音様が流れてきた。三重県白子神社のもので、村の者が白子まで返しに行ったところ、代わりに小さな観音様を貰ったので、それを祀っているのだという。
この周辺には多くの池や沼があったので、田んぼが5反くらいしか作れなかった。その為、この周辺は五反郷という地名であった。
昔は1反あたり0.5俵程度しか収穫が得られず、生活するには大変苦労する場所だった。
その後、技術が進歩し、同じ土地の面積で、約20倍の収穫量が得られるようになった。
四郷整地碑
畑の隅に、この土地の水田の取れ高を増やすための整地工事について示す、2つの石碑が立っていた。
北の記念碑:100年前(明治末)水害を避けるため田んぼに堀を作って、土を盛ったと書いてある。(堀田)
南の記念碑:80年前(昭和初め)治水工事後、必要なくなった堤防の土で堀を埋めて取れ高を増やしたと書いてある。
周辺の庄屋達による合同工事で、石碑の裏面には、関係者の名前が並んでいた。
薩摩義士洗堰遺構(コース外)
四郷整地碑の後、時間があったので洗堰へ。
堰は堤防とは違い、水位が低いときは水が流れず、
水位が高いときは、水の流れを弱めるもの。
大藪洗堰跡記念碑の位置は、実際の堰の位置とは異なる。
実際の堰は、もっと長良川に近い位置にあった。
大藪川の治水工事には、薩摩藩の藩士が多大な貢献をしていて、
現在の人々も、人々は彼らに感謝している。
薩摩に足を向けて寝られないということから、村の人々は実際に西枕で寝ているそうである。
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