文学碑 葉山嘉樹「海に生くる人々」 について知っていることをぜひ教えてください

室蘭港は、第1次世界大戦(1914(大正3)〜1918(大正7))のころ、夕張などで採れた石炭の積み出し港として、大いに栄ました。

その積み込み桟橋があった位置が、この石碑の辺りでした。

葉山嘉樹が石炭船の船員だった当時、このあたりに降り立ったことでしょう。

現在は埋め立てられて、気持ちのいい公園になっています。



 

 

 

 

 

 

 

以下室蘭市の文学碑のファイルからの引用

(主碑)海に生くる人々

(副碑)室蘭港が奥深く廣く入り込んだその太平洋への湾口に大黒島が栓をしてゐる。雪は北海道の全土を蔽ふて、地面から雲までの厚さで、横に降りまくった

「海に生くる人々」より


 葉山嘉樹文学碑(昭和61年10月18日建立、入江町入江臨海公園内)明治27年(1894)、福岡県生まれ。大正5年(1916)、室蘭・横浜間の石炭運搬船「万字丸」に下級船員として乗り込み、室蘭にやってきました。その時の体験は、大正12年、治安容疑で服役中の名古屋の刑務所で、毎日検問を受けながら書き上げられ、プロレタリア文学の名作「海に生くる人々」として後に世に出されました。
 この小説には、平成13年6月まで営業していた菓子屋の東陽軒(小説では東洋軒)をはじめ、当時の室蘭の港や町の様子が描かれています。そして、けがをして手当てを受けた町立病院の院長は、八木義徳の実父、田中好治でした。
 また、『鴨猟』では室蘭港を描いています。小樽出身の小林多喜二は、この『海に生くる人々』など葉山の作品から大きな影響を受け、『蟹工船』を書き上げたといわれています。
 高さ1m、幅4m、奥行き2mの台座の上に、海を背にして高さ2m、幅3mの有珠山の安山岩の主碑と高さ1.1m、幅1.4mの黒御影石の副碑、そして日高石の添え石の三つが、ここちよい風に吹かれながら、入江臨海公園に建っています。
 碑文は、『海に生くる人々』の有名な書き出しの一節で、元室蘭市長で書家の長谷川遅牛の筆によるものです。碑の建っている場所は、かつて石炭積み出しの船が出入りして栄えた港を埋め立てたところであり、この碑は単に文学碑であるだけでなく、室蘭港を開発した多くの先達の顕彰碑でもあります。
 碑は、建立期成会が中心となって、港を愛する多くの人々の善意によって建てられ、葉山の41回目の命日である昭和61年10月18日に、菊枝夫人や長女、出生地の福岡県豊津町の町長、室蘭出身の芥川賞作家、八木義德らを招いて除幕式が行われました。

「海に生くる人々」葉山嘉樹

 


八木義徳氏「海の文学碑」より

 

 

室蘭港を見渡せる場所に「海に生くる人々」の文学碑が建てられたのは、葉山嘉樹氏没40年にあたる昭和60年10月18日(命日)で、この建設計画が発足したのはわずかその一年前。当時室蘭は、製鉄所の四基あった高炉も一基を残すばかりとなり、それさえも稼働されなくなるかもしれないと噂されるほどの経済不況の最中であった。

 

この街の人を元気にするには原点である「港」を見直す必要がある!

「室蘭は港からはじまった街ですからね。港が室蘭の歴史のいわば原点ですから。」温厚なH君がいった。「不景気で街の人たちの気分がなんとなく沈んでいるこういう時だからこそ、室蘭の歴史の原点を見直す必要があるんじゃないか、という話が若い連中と一杯飲み屋で飲んでいるとき偶然に起こったんです。(省略)」

K君が話をつづけた。「…..みんなで廻し読みをしたんです。そうしたら、いきなり室蘭港が出てくるし、大黒島が出てくるし、高架桟橋が出てくるし、沖仲仕が出てくるし、お菓子屋の東陽軒が出てくるし、幕西の遊郭が出てくるし、町立病院が出てくるし…」「先生のお父さまも出てきます」

 

街を危ぶむ不景気の中では、文学碑建立の資金集め自体が困難であろうという八木氏の心配をよそに、室蘭を想う彼らの意思は固いものだった。

 

室蘭の港のいい記念になるならと

「その小説は大正初期の室蘭の港と街の、まさに生きた歴史の記念碑だと思いました。それで『海に生くる人々』の文学碑をぜひとも港の一角に建てようとみんなの意見が一致したんです」 立案者の一人が言う。不可能であるかとも思えるこの建立計画は、たった一年という驚異的な速さで見事に実現されることとなる。

「道内の各方面にも建立趣意書を配った上、市内の有力な企業や団体を一つ一つ訪ねまわったんです。ところがどこでも予想外にぼくらの言うことをよく聞いてくれて、その葉山嘉樹という小説家の事は何も知らないが、しかしそういう文学碑が出来ることで室蘭の港のいい記念になるなら、といって快く募金に応じてくれたんです」

「いや、室蘭人ばかりじゃありません。道内各地からもずいぶんたくさんの方から寄金がありましたし、それに葉山嘉樹の生地である福岡県の豊津町や、彼が晩年をすごした長野県の駒ケ根市からも寄附がありました。その上、いちばん金が費ると思っていた三つの碑石も、三人の篤志家からそれぞれ無料で寄附されたんです」

私たちの中にあるエネルギー

このエネルギーの結合は何故なのか?誰しも心を悩まし恐怖感をも感じている不況の最中に合って、即実益に結びつかない筈の「港の文学碑」の建立にこれほど強く沢山の思いが重なるのには必ずや理由があるはずなのである。「室蘭は、港からはじまった街ですからね」やはりこれなのだろう。「港の文学碑」は室蘭を元気にしたいという思いの結晶。即効の実益に結びつかぬとも、それを上回る資産に値するひとつではないのかと。いや、もっと前面に出すべきものではないのだろうか。

建立後およそ30年余りの時間が流れた今日も「港の文学碑」はそこにある。そして、「室蘭を活性化させたい」という強い思いも。フェリーの運航が室蘭に帰ってくる時を前に、改めて私たちの中にあるエネルギーを感じたい。存在しているものには、知られざる多くの人たちの尽力があり、作られた理由もある。知らないで過ごしていることがまだまだ多いという事に気が付く。

 

(斜体文は、八木義徳氏「命三つ『海の文学碑』より抜粋させて頂いております。)

「2016/11/19 追記 菅原由美」

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