御用邸(ごようてい、1901年 - 1930年)は、かつて小田原城址にあった皇族の滞在施設。1893年・1896年に常宮周宮両内親王が避寒のため小田原の滄浪閣鴎盟館に滞在したことを契機に宮内省が旧城内の用地を取得して新設され、両内親王が避寒のため滞在したほか、葉山・沼津・箱根熱海の御用邸の中継地点としても利用された。

沿革

1893年(明治26)1月、内親王の常宮周宮が避寒のため約2ヵ月間、小田原の滄浪閣に滞在(2)。1896年(明治29)には、両内親王は鴎盟館に約2ヵ月半滞在し、その間、小学校の運動会や卒業式に参列し、金品を下賜するなどした。小田原町側も、歓迎のため催事を展開した(2)

両内親王に気に入られたので、旧小田原城内に御用邸を新設する計画が持ち上がり、1899年(明治32)2月頃、宮内省が用地を確保することになった(2)

小田原町は、大久保家から5千円で買い上げた旧城内の町有地(12町2反2畝・121,190m2)のうち4町1反3畝18歩(41,018m2)を2万5千円で御用邸の敷地用に売却し、大久保家から借用していた6町9畝17歩(60,453m2)を同家に返却(2)。大久保家はその土地を平塚の御料林の土地と交換した(片岡永左衛門『足柄史料』)(2)。小田原城の天守台にあった大久保神社は、敷地を御料地と交換することになり、小峰(城山3丁目)に移転した(2)

1900年(明治33)1月13日に御用邸新築の地鎮祭が行われ、1901年(明治34)1月に落成した(1)(2)。同年4月には当時の皇太子(大正天皇)が初めて小田原の御用邸を訪れた(2)

両内親王はその年から避寒のため御用邸に滞在し、避寒のための滞在は、(2人のうちどちらかが?)結婚する1907年(明治40)まで続けられた(2)。その間、小学校への参観も恒例行事となった(2)。また2人は結婚して竹田宮妃・白河宮妃となった後も、しばしば御用邸を訪れた(2)

1909年(明治42)2月と1910年(明治43)1月には韓国の皇太子が避寒のため滞在した(2)

また迪宮(昭和天皇)、淳宮(秩父宮)、光宮(高松宮)が避暑のため滞在したこともあった(2)

小田原の御用邸は、葉山・沼津・箱根熱海の御用邸の中継地点として位置付けられ、御用邸関係者の往来も増えていった(2)

1923年(大正12)9月1日、関東大震災で建物が倒壊(3)

1930年(昭和5)12月、廃止(1)

参考資料

  1. 「年表」播摩晃一ほか編『図説 小田原・足柄の歴史 下巻』郷土出版社、1994、148-151頁
  2. 宮坂博邦「御用邸の建設と小田原町の活況」『小田原市史 通史編 近現代』小田原市、2001、92-94頁、I 近代 第3章 第1節 小田原城の解体と城跡地所管の変遷
  3. 倉田俊丸『ある城下町の教会 小田原教会七十五年の歩み』日本基督教団、1962、15頁。『足柄下郡史』による。

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