成修庵(せいしゅうあん)、観音山は、かつて荻窪にあった臨済宗大徳寺派寺院。開山は不伝(天正5年・1577没)、開基は鈴木大学頭成修(天正18年(1590)5月6日戦没)で、酒匂村の里正・(鈴木)新左衛門の家伝に、鈴木成修が後北条氏に仕えていた元亀・天正の頃(1570-1590)、荻窪に庵室を創建し、家蔵の観音像を安置して「鈴木山成修庵」と号していた、とされていた。江戸時代には箱根湯本早雲寺の末寺だった。(1)

観音堂

観音堂には像高5寸5分(約16.7cm)の聖観音の銅像が安置してあった。鈴木三郎重家の守護仏で、弘法大師の作とされていた。(1)

  • このことは酒匂村の(鈴木)新左衛門家の家記にもあった。その写し:鈴木氏世居相州足柄下郡酒勾村、文治中(1185-1190)有一人負笈懐児請宿居、有頃謂主曰、被容接已有日、豈敢匿情乎、僕源廷尉義経臣、鈴木三郎重家也、先随廷尉寄宿此家、廷尉曰、今在奥羽之間故欲往而共生死遂属児於主、又出示観音金像長五寸五分、是空海大師所鋳也、我従廷尉戦闘多年、末嘗須叟離身、疇昔夢寐所感、是夙因也、以送主、願能奉之、若児幸而長、教此崇信、語訖而去矣、主無子令児為後、由之氏鈴木、爾後相伝三百八十余年、至鈴木大学頭成修天正元亀之間、北条氏据小田原城、辟為軍鋒、成修乃於郭北荻窪村、結一小庵、号成修庵、山謂鈴木、安置彼金像云々(1)

参考資料

  1. 風土記稿