曽我光海(そがこうみ)
沿革
1969年頃、千代の三島神社の境内にあった「小海開発碑」の碑銘によると、江戸時代、曽我谷津・曽我原・曽我別所・曽我岸・千代の5ヶ村、高2,320石のうちに、小海耕地(こうみこうち)と呼ばれる反別8町歩(約7.9ha)余の土地があった(1)。しかし水に浸かっていて、深いところで1丈(約3m)超、浅いところでも尺(約30cm)に及び、昔から不耕地が多かった(1)。そこで地勢を考慮して、千代村分の土地を300間(約545m)あまり掘ることになり、天保8年(1837)の春に工事を開始して、初夏に至って悪水が抜け、水はけのよい本田となった(1)。
この事業は、小田原の郡奉行を長年務めた山崎金五右衛門の行った事業として知られている(1)。工事完成を記念して堤の上に神座が設けられ、旧暦4月8日に祭祀が行われていた(1)。「小海開発碑」は小海耕地の側に建立してあったが、後に三島神社境内に移された(1)。
「小海」は即ち「光海」である(1)。
参考資料
- 小田原市郷土文化館「63 小海開発碑」『小田原の金石文 (3)』1969、44-45頁