法輪寺 本堂法輪寺(ほうりんじ)、盤谷山は、曽我谷津にある臨済宗建長寺派寺院(1)(3)。本尊は釈迦如来(3)。開山は鎌倉・建長寺35世・了道素安(延文5年・1360没、勅諡:本覚禅師)、開基は浄智温中和尚(貞治3年・1364没)。江戸時代には建長寺の末寺だった。

沿革

正平7年(1352・北朝文和元年)の創建(6)

往古は天台宗の寺院で、寺号を廬尊寺(るそんじ)といったが、了道による改宗の際に「法輪寺」と改めた(1)(5)

寺伝では、開山は了道素安、開基は浄智温中とされているが、『風土記稿』は、浄智温中が当寺を開き、了道素安を勧請して開山とした、と推測している(1)。『全国寺院名鑑』には、開基は源国清とある(5)

(天保2・1831年に(3))堂宇を焼失したことがあり、天保年間(1830-1844)、22世・碩聞の代に再建された(5)

什宝

本尊

『風土記稿』のとき、本尊は地蔵菩薩坐像(像高5寸8分・約17.6cm、運慶作)だった(1)。この坐像は天保2年(1831)の火災で焼失し、その後、室町時代造立の釈迦如来坐像が隠居寺から本尊として移された(3)

曽我祐信の位牌

『風土記稿』のとき、碑面に「崇泉寺殿智岳祐信居士、正治二年(1200)七月朔日、施主曽我播磨守」と書かれた曽我祐信の位牌があったが焼失した、と伝えられていた(1)

現地案内板によると、もともと法輪寺の東側に祐信山崇泉寺という曽我太郞祐信の菩提寺があって、そこにあった位牌が、廃寺となったため法輪寺に安置された、という(3)

『全国寺院名鑑』によると、曽我祐信の位牌は天保10年(1839)の作(5)

二十五条布袈裟

『風土記稿』のとき、元禄期(1688-1704)の浄土律僧・澄禅が縫ったという(一針一拝の)二十五条布袈裟が1領あった(1)(3)(5)

境内

1970年当時、境内は700坪(約48.1m四方)、建物は本堂69坪(約15.1m四方)、庫裡48坪(約12.6m四方)、薬師堂、山門(5)

鐘楼

『風土記稿』のとき、境内の鐘楼には、元禄2年(1689)鋳造の大鐘が掛けてあった(1)

薬師堂

法輪寺 薬師堂(瑠璃光殿)と、「狗留孫仏の舎利」を納めたと伝わる宝篋印塔2022年現在、境内にある薬師堂(瑠璃光殿)には、平安時代(藤原時代)の薬師三尊像(薬師如来と日光・月光の両菩薩)(2)と脇仏の十二神将像(3)が祀られている(2)(3)

この薬師三尊像は、もともと小沢明神(宗我神社の前身)の東隣の薬師堂(法輪寺大門跡(3)、現・曽我谷津公民館)に安置してあった小沢明神の本地仏で、1914年(大正3)ないし1915年(大正4)に現在の場所に移された(2)(3)

宝篋印塔

『風土記稿』のとき、境内の宝篋印塔には、元禄2年(1689)に澄禅が夢の中で手に入れた仏舎利(拘留孫仏の舎利)を納めてある、といわれていた(1)

2022年現在、この宝篋印塔は、薬師堂の前にある(3)

鎮守社

『風土記稿』のとき、境内に、稲荷春日天神秋葉を合祀した鎮守社があった(1)

土砂災害特別警戒区域

法輪寺の境内の一部を含む殿沢川の区域(41060 殿沢川)は、神奈川県の土砂災害特別警戒区域(土石流)に(2013年3月29日 告示第207号)、曽我谷津03-1の区域(206-H26-10 曽我谷津03-1)は、土砂災害特別警戒区域(急傾斜)に(2021年3月19日 告示第150号)、それぞれ指定されている(4)

寺紋

寺紋は三つ鱗(2019年調査)

リンク

参考資料

  1. 『風土記稿』
  2. 小田原市教育委員会「法輪寺の木彫薬師三尊」現地案内板、設置時期不明、2022年閲覧
  3. 著者不明「法輪寺」現地案内板、設置時期不明、2022年閲覧
  4. 神奈川県土砂災害情報ポータル 区域図(殿沢川) 区域図(曽我谷津03-1)
  5. 全日本仏教会寺院名鑑刊行会『〈改定版〉全国寺院名鑑 北海道/東北・関東編』同左、1970年3月(初版1969年3月)、p.422
  6. 寺院総覧編纂局『大日本寺院総覧』明治出版社、1916・大正5、pp.611-612

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