福島 伊賀守(ふくしま いがのかみ、生年不詳 - 1610年)、福島 成賢(ふくしま しげかた?)、入道:道瑞(どうずい)は、後北条氏に仕官し、5代・北条氏直の頃、旗本の武者奉行を務め、その勇敢さや戦争経験で知られていた人物。また、人目を惹くような異様な出立をしていたとの伝説が三浦浄心北条五代記』にみえる。相州大庭城主。『武辺雑談』によると、後北条氏滅亡後は板橋に住み、小田原城主となった大久保忠隣と交流があった。風祭万松院がある。

経歴

六巻本『北条記』によると、永禄12年(1569)1月に北条氏康氏政父子が、駿河国の久野(久能)に布陣していた武田信玄を討つべく、三島に出陣した軍勢の中に、九嶋伊賀守の名がみえる(1.1)。またこの後、信玄が、後北条氏の軍勢が駿河へ出陣した隙を突いて小田原城を攻めたときに、九嶋道随入道が、石巻下野守と共に井細田口を守備していたことが見える(1.2)

  • 『北条五代記』は、信玄の軍勢が小田原から退却する際に、氏康・氏政に追討を命じられた中の1人として、福嶋伊賀守の名を挙げている(2.3)

三浦浄心北条五代記』によると、5代・北条氏直の頃、福嶋伊賀守は、伊勢備中守山角紀伊守と共に旗本の武者奉行をしており、それまで数度の合戦で先陣を務め、勇敢で軍法にも詳しい人物と見なされていた(2.1)

同書に、天正10年(1582)6月に、武州金久保(埼玉県児玉郡上里町金久保)で滝川左近将監(一益)と戦ったとき(神流川合戦)、氏直の先手陣の中に福嶋伊賀守の名がみえる(2.2)

六巻本『北条記』によると、天正18年(1590)に豊臣秀吉が小田原城を攻めたとき、同城に籠城していた軍勢の中に、福嶋伊賀入道道脺の名がみえる(1.3)

武辺雑談』によると、福島伊賀守成賢は、後北条氏が滅亡した後、剃髪して「道瑞」と号し、仕官はせずに板橋で暮らした(3)小田原城主となった大久保忠隣は、その人柄を敬慕して、城ヘ呼び、茶道連歌の友として親しく交際していたという(3)

2022年現在、風祭万松院がある(4)。墓碑によると、慶長15年(1610)2月4日に死去、法号「実相院殿光翁道瑞居士」(4)。相州大庭(藤沢市大庭)城主(4)

評価

  • 『北条五代記』によると、伊賀守は、生れつき、こつぜんど?が異様で、大男だった。大髯を生やしていて、見た目や格好が人とは違って、目立っていた。氏直のところへ、1日に3回出仕することがあると、刀や脇指、衣類まで、それぞれ3通り別のものを用意し、長柄刀(柄つかの長い刀)に腕抜きを付けて差している時もあり、短い刀の柄を赤い糸で巻いていることもあり、虎の皮のしんざやまき芯・鞘巻?の太刀を差している事もあった。しかし、氏直は、伊賀守のことを気に入っているためか、こうしたことを見咎めることもなく、まわりの同僚たちも誹ったり怪しんだりすることはなかった。(2.1)
  • 同書によると、或る年、久野神社の祭礼に、異様な出立で見物に出たことがあった(神山神社の項を参照)。(2.1)
  • また同書によると、或る時、相模国の馬入河(相模川)を渡ろうとしたときに、中間(馬を牽く従者)を水底へ引きずり込んで食べようとした長さ1間(1.8m)ほどの大鱸(スズキ)を、水中で脇差で5回刺して退治したことがあった。人々は、伊賀守は希代の勇者で、鬼の生まれ変わりだと言っていた、という。(2.1)

関連資料

参考資料

  1. 六巻本『北条記』
    1. 巻4(4)「今川没落之事付薩埵合戦之事」萩原龍夫(校注)『北条史料集』新人物往来社、1966、128-133頁の129頁(九嶋伊賀守)
    2. 巻4(6)「信玄小田原出張之事」同書135-142頁の137頁
    3. 巻6(3)「関白勢囲小田原事付松田内通の事」同書190-195頁の191頁
  2. 三浦浄心『北条五代記』寛永版
    1. 巻2(4) 「福島伊賀守、河鱸を捕手柄の事」柳沢昌紀(翻刻)『仮名草子集成 第62巻』東京堂出版、2019、116-117頁
    2. 巻5(1)「北条氏直と、滝川左近将監、合戦の事」同書187-190頁の190頁
    3. 巻6(1)「上杉輝虎、武田信玄、小田原へ働事」同書215-225頁の222頁(この条は『北条記』に依拠して適当に書いた類とみられる)
  3. 『風土記稿』26 足柄下郡 5 早川庄 板橋村 福島伊賀守成賢宅跡
  4. 風祭の万松院の墓碑による。2022年調査。

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