福田寺 本堂福田寺(ふくでんじ)、蓋子山(5)正覚院は、本町4丁目にある時宗寺院。本尊は、阿弥陀如来(2)。遊行2祖・佗(他)阿真教(元応元年・1319没)により、永仁5年(1297)に創建された(1)。江戸時代には藤沢・清浄光寺の末寺だった(1)

沿革

縁起

風土記稿』には、「蓋子山」の山号に関連して、往古は箱根二子山の辺りに寺地があったといわれていた、と言及がある(1)

2022年現在、福田寺のウェブサイトには、元箱根国道沿い、二子山麓の、精進池があり、正安2年(1300)銘の六地蔵と永仁元年(1293)銘の磨崖仏大小二十五菩薩像、少し離れた多田満仲墓宝篋印塔、曾我兄弟古塔のある辺りが福田寺の旧地といわれている、とある(2)

しかし、『風土記稿』巻29 元箱根(下)元賽ノ河原○六道地蔵堂○精進池○多田満仲墓○二十五菩薩○曾我兄弟墳には、

  • 六道地蔵堂(地蔵像の造立時期は不明)の傍に六地蔵があるが、近しい年代のものであること
  • 多田満仲墓には正安(1299-1302)・文和(1352-1356)の年号がみえること
  • 二十五菩薩には永仁元年(1293)の銘があること
  • 曾我兄弟墳の台石に永仁(1293-1299)の年号があること

に言及があるが、福田寺の名には言及がない(3)

福田寺が小田原へ移転した経緯については記録を欠く(6)。1969年(昭和44)に本堂の改築基礎工事をした際に、そのことを示す古文書が見つかったと当時の佐藤昭善住職が話していたというが(6)、不詳。

 

仏像

2022年現在、福田寺のウェブサイトによると、本尊は阿弥陀如来像(2)

『風土記稿』のときの本尊は延命地蔵で、像高4寸8分(約14.5cm)、毘首羯摩の作とされ、日限願満地蔵と号していた(1)。福田寺のウェブサイトによると、この地蔵像は、いま本堂の奥の小堂に安置されている(2)

『風土記稿』のとき、本尊の延命地蔵のほかに、像高1尺2寸(約36.4cm)で聖徳太子の作とされる阿弥陀如来像、像高8寸(約24.2cm)で弘法大師の作とされる閻魔大王の石像などが安置されていた(1)

境内

本堂

小田原に移転してから、寺地が海に近いため、度々水災や地震に遭って本堂はすたれ、文政年間(1818-1830)には火災で焼失した(6)

1969年(昭和44)3月に、鉄筋コンクリート造の本堂が竣工した(6)

観音堂

『風土記稿』のとき、境内に観音堂があり、本尊として千手観音像が祀られていた(1)。像高4寸8分(約14.5cm)、伝弘法大師作(1)

また十一面観音像(像高6寸・約18.2cm、慈覚大師の作)、愛染明王像(像高6寸・約18.2cm、同作)、毘沙門天像(像高2寸8分・約8.5cm、聖徳太子の作)が安置されていた(1)

熊野社

『風土記稿』のとき、境内に熊野社があった(1)

弁天社

『風土記稿』のとき、境内に弁天社があった(1)

脇寮

『風土記稿』のとき、境内に脇寮があった(1)

みゆき愛児園

境内に隣接しているみゆき愛児園は、1943年(昭和18)に福田寺の佐藤明観住職が個人的に本堂を借用して設立した幸(みゆき)戦時保育園を起源とし、1945年(昭和20)の終戦後に常設の幸保育園へと改組された(4)

2022年現在は境内の隣地にある(2022年調査)

住職

愛阿和尚

天文の頃(1532-1555)の住職・愛阿は連歌の達人で、北条氏綱の月次の会に列席していたことが『小田原記』(5巻本『北条記』)にみえる(詳細は、早川心明院の記事を参照)。(1)

 

年中行事

2022年5月現在、毎月第2日曜日に写経会を開催中(公式サイト)

寺紋

寺紋は「隅切角に三」。(2019年調査)

リンク

参考資料

  1. 風土記稿
  2. 時宗 蓋子山 福田寺福田寺について
  3. 『風土記稿』巻29 元箱根(下)元賽ノ河原○六道地蔵堂○精進池○多田満仲墓○二十五菩薩○曾我兄弟墳
  4. みゆき愛児園ウェブサイト > 保育情報 > 保育のしおり 重要事項説明書 R4.4.1~
  5. 山号「蓋子山」の読みについて『風土記稿』は「ふたご」と訓読みすると注記しているが(1)、福田寺のウェブサイトでは「がいしさん」と音読みで振仮名が振られている(2)
  6. 高原松太郞「24区(旧代官町)寺院の起こり」『第24区公民館 開館3周年記念誌(代官町)』第24区自治会、1980・昭和55、52-53頁

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