長立寺(ちょうりつじ)、池鏡山は、かつて千代にあった浄土宗の寺院。本尊は三尊阿弥陀だった。源頼朝が創建した古刹だったといい、中興開山は沢応(享保年間・1716-1736没)。創建当時の大鐘が千代村の字・上原の南東の方の田畑に埋まっていると伝えられており、その土地を字・鐘堀田と呼び、1間(約1.8m)四方の土地が不毛の地となっていた。江戸時代には、千代・円宗寺の末寺だった。(1)

乳母神堂

乳母神堂の神体は、大黒像に似た高さ1尺8寸5分(約56cm)の立像で、これは頼朝の乳母が所持していた像とされていた。そして堂宇は頼朝が建立したといわれていた。(1)

当時の棟札の断片(高さ2尺・約60.6cm、幅3寸・約9.1cmほど、厚さ6分・約1.8cm)が所蔵されていた。(1)

  • その文面:奉造立一間四面堂一宇/大檀越従二位前右近衛大将権大納言源朝臣頼朝御芳縁御所生/平朝臣時政比丘尼妙法藤原親能

『風土記稿』は、棟札の文面は解釈し難いが、「藤原親能」は、頼朝の娘・乙姫の乳母の夫だった掃部頭中原親能だろう。親能は、正治元年(1199)晦日に乙姫が死去した時、薙髪して寂忍と号した。頼朝の乳母と伝えられているのは乙姫の乳母で、親能の妻が、乙姫のためにこの像を信崇して、建久の頃(1190-1198)、頼朝がこの堂を建立したのではないか。頼朝が大納言に任じられ、右大将を兼務したのは建久元年(1190)11月である。そうでなければ親能の名が棟札に載る理由がない、と推測している。(1)

  • 『東鑑』の引用1:正治元年3月5日:故将軍姫君号三幡、御病悩、尼御台所諸社有祈願、諸寺修誦経云々
  • 『東鑑』の引用2:6月晦日:姫君三幡遷化、御年十四、尼御台所御歎息、乳母夫掃部頭親能遂出家、今夜亥刻姫君奉葬于親能亀谷堂傍也云々

廃寺

長立寺は明治5年(1872)に廃寺となり、什宝などは円宗寺に引き継がれた。(2)

 

参考資料

  1. 風土記稿
  2. タイキグループ > お墓・墓地・霊園を探す > 神奈川県のお墓・墓地・霊園 > 小田原市のお墓・墓地・霊園 > 圓宗寺(えんそうじ)、2018年、更新時期不明