高源院(こうげんいん)、栖龍山は、かつて谷津村(城山)にあった曹洞宗寺院。本尊は釈迦如来。当初伊豆国で創建されたといい、開山は武蔵国入間郡越生・龍穏寺13世で、北条氏直の伯父と伝えられている梅臾林呑(天正18・1590没)、開基は、山木御大方(法号:高源院長流泉香大姉)。江戸時代には龍穏寺の末寺で、谷津村の十王堂を管理していた。(1)

沿革

開基

開基とされる山木御大方は、高源院の寺伝では、北条氏康の妹で慶長17年(1612)6月14日没、荻窪村(扇町)の大長院の寺伝では北条氏直の姉で、慶長7年(1602)没と伝わるが、高源院の所蔵文書(後出)には、天正14年(1586)にその菩提を弔われている旨がみえる(1)

合寺

1900年(明治33)(3)ないし1903年(明治36)(4)長吉寺と合寺して高長寺が創建された(3)(4)

什宝

古文書

高源院から寺領1町5段(14,876m2、約122m四方)を寄附されたときの寄附状が所蔵されていた。その写し(1)(2)

かうせんじのぢれうとして、一町五段、右つけ置候事、ぢつしやう也、まつだいさおひ候まじく候、御茶とうをも、被申べく候、すへゝゝには、又々参らせ申べく候、まづすくなく候へども、つけ参らせ候、そのためにかぬま殿へ、ふでにかゝせ申候、仍如件、とりの八月廿一日、かうせんじ殿へ参る、山木御大はう、[黒印あり]

『風土記稿』は、文中に「かうせんじ」と記してあるのは書き損じだろうか、或は当時の通称だろうか、としている(1)(2)。また香沼女は氏康の妹だと伝わるので、高源院の妹だろうか、としている(1)(2)(『風土記稿』の翻刻は「姉」としているが(1)、内閣の写本には「娣」とあり(2)、文脈から妹と思われる)

天正14年(1586)9月に北条氏直が豆州加茂郡小那部(賀茂郡河津町小鍋。『風土記稿』の頃には「小鍋」と記していた)の20貫文の土地を寄附したときの書状が所蔵されていた。その写し(1)

山木御大方為御菩提、河津之内小那部村、渡辺買得分二十貫文、令寄進者也、仍状如件、天正十四年丙戌(1586)九月十九日、高源院、氏直[花押]

またこのとき(板部岡)江雪斎融成も奉書を出している(1)

河津之内小那部村、年期明候砌者以別様可寄進候、仍而如件、天正十四年丙戌(1586)九月十九日、高源院、江雪奉之[虎朱印]

翌年(天正15年・1587)2月に寺内の掟書が出されている(1)

掟、為新地間寺内并門前町屋十五間、棟別諸役赦免之事、竹木一本も不可剪事、横合非分狼藉等、堅令停止事、右於違反之輩者、可被遂披露可処罪科旨、被仰出者也、仍如件、天正十五年丁亥(1587)二月廿一日、龍建寺、江雪奉之、[虎朱印]

『風土記稿』は、当時は「龍建寺」という寺号があったのかもしれないが、今は伝わっていない、としている(1)

位牌

本尊の釈迦如来の側に、高源院と香沼女(法名:天桂院梅林祐香大姉、元和3年(1617)4月20日没)の位牌が安置されてあった(1)

境内

地蔵堂

境内に地蔵堂があった(1)

参考資料

  1. 風土記稿
  2. 『風土記稿』国立公文書館内閣文庫本 請求番号173-0190、第12冊 コマ98
  3. 高長寺入り口脇の案内板(2019年調査)
  4. 全日本仏教会寺院名鑑刊行会『〈改定版〉全国寺院名鑑 北海道/東北・関東編』同左、1970年3月(初版1969年3月)、p.422