厚沢部町上里にある上里温泉は、江戸時代から「イヤシナイの湯」として知られる秘湯でした。松浦武四郎が弘化3年(1846)に蝦夷地を訪れた際にここに入湯しています。

再航蝦夷日誌

イヤシナイ。温泉有。山の間ニ人家一軒。此処に止宿して入湯する也。其湯守、柾割、角引、炭焼等を致す。近く三軒斗もふえしと聞り。然し春内は是も浜ニ下り漁猟をする也。功能甚多し。然れども其地甚以辺鄙なるが故ニ入湯人少し。余も此処迄行て一宿致し帰りたり。然れども其奥の村々は聞しままをしるし置干。(吉田武三1970『三航蝦夷日誌』上巻,吉川弘文館,p543)

口語訳

温泉があり、ここに宿泊して入湯した。湯守人は柾割、角引(いずれも製材作業)、炭焼などをしている。最近、3軒ほど人家が増えたと聞く。春にはこの人たちも浜に下りて漁猟に従事する。(温泉の)効能ははなはだ多い。しかし、辺鄙な土地なので入湯する人は少ない。自分もここまで来て宿泊して帰ってきた。これより奥の村については話を聞いたとおりに記す。

 

武四郎廻浦日記

イヤシナイ、温泉有。此処湯守壱軒有。前に小沢一すじ。此温泉諸病によろし。別て其内痰疾によろしと。(高倉新一郎1978『<安政三年>竹四郎廻浦日記』上,北海道出版企画センター,pp240-241)

温泉の効能について「痰疾に効く」と具体的に記されています。

 

明治29年のイヤシナイ温泉

明治29年測量の地形図にはイヤシナイ温泉の位置に神社と温泉のマークが記されています。いずれも大変判読しにくいものですが、神社2軒と温泉マークがみえます。これがイヤシナイ温泉です。

国土地理院発行明治29測量五万分1地形図「江差」・「中山峠」

 

明治29年測量図にOpenStreetMapの道路・河川データを重ねた

 

明治29年測量図にOpenStreetMapの道路・河川データ、国土地理院昭和51年撮影航空写真を重ねた

 

イヤシナイ温泉の正確な場所

2006年にイヤシナイ温泉を経営されていた方に聞き取りを行ったことがあります。イヤシナイ温泉は旧字意養13番地で現在の字上里652〜665番地にあたります。地番図をもとにかつてのイヤシナイ温泉の跡地を訪れました。

イヤシナイ温泉跡地(2018年8月3日撮影)

 

温泉跡地の向かいからは今でも温泉が湧き出ています。

 

湯守のばっちゃん

松浦武四郎が訪れた「イヤシナイ温泉」を明治期はいって経営をされていたのが故佐藤英光氏(厚沢部町字上里)の曾祖母にあたる佐藤トミさんでした。「湯守のばっちゃん」と呼ばれていたそうです。トミさんがいつから温泉経営を始めたのかは不明ですが、明治20年代にはトミさんが温泉経営をしていたと思われます。

2005年6月6日に故佐藤英光氏から聞き取りした内容は以下のとおりです。


佐藤トミ(英光氏の曾祖母)は能登の出身で、最初は水堀(現江差町字水堀)に嫁いだが、子供ができず離縁した。その後、佐藤本家の長男であった佐藤梅太郎と結婚した。梅太郎は家業の農業を継がず(家業は次男に譲ったという。)トミとともに温泉経営を行ったという。温泉宿の実質的な経営はトミが行っていたらしい。二人には子供がなく、梅太郎の末の妹、よし子を養女とした。よし子は温泉宿に来ていた富山の売薬商人との間に子どもをもうけ、この子どもが英光氏の父親である。温泉経営を行った佐藤トミは昭和16年7月に88歳で死亡しているので、出生年は安政元年(1853)頃と推測される。

温泉宿は4間×10間程度建物だったようだ。意養温泉は湯温が低く、源泉を沸かして用いていた。佐藤家に残る大正11年の檜山支庁発行の指令書に記される立木の伐採許可は、温泉の湯を沸かすための薪の伐採ではないか。

温泉の経営権を手放したのは、昭和44月頃と考えられ、東京在住の人物へ売却手続きを行ったとみられる書類が残っている。ただし、書面の記載地が温泉の所在地であるかどうかは不明である。


イヤシナイ温泉と久須志神社


 江戸時代から秘湯として知られるイヤシナイ温泉は、松浦武四郎が「功能はなはだ多し」と書き記したように温泉効果抜群だったようです。具体的な効能としては「痰疾によろし」とあって、呼吸器系の病気に効能があったようです。

イヤシナイ温泉には「久須志神社」という神社が併設されていたようです。「久須志」は「薬師」でしょう。久須志神社は俄虫村字意養十三番地に所在します。イヤシナイ温泉敷地内に所在したようです。無格社で、祭神は大石持神です。創始年代は不明で、明治9年に再建されたとの記録があるようです(出典未確認 執筆者石井のメモから)。


久須志神社の薬師如来像が字上里の佐藤厚子さん宅に保存されています。この薬師像は明治34年に乙部の方が寄贈したことが裏書きによってわかります。想像ですが、イヤシナイ温泉で病気を治すことができた人がこの像を寄贈したのではないでしょうか。


久須志神社に祀られていたという薬師如来像。地面からお湯が湧き出ることだけでも不思議なことですが、それだけでなく、人の体まで治すことはまさに仏様の力と思えたのでしょう。

 

薬師如来像の背面には以下の記載があります。乙部町の小西清太郎という人物が寄贈したようです。

  • 爾志郡乙部字下町二十三番地
  • 明治三拾四年旧六月八日にて
  • 佛○○
  • ○○小西清太郎