明治元年(1686)11月12日、館城攻略を目指して、松岡四郎次郎率いる幕府一聯隊と松前藩の戦闘が行われました。松前藩は、稲倉石の狭い地形を利用して防御陣地を設置して松岡隊を迎え撃ちました。

松前藩は、狭い谷底の道を封鎖して、大砲を設置しており、一見、鉄壁の守りのように見えましたが、松岡隊は、陣地左右の急峻な岩山に兵を配置して、谷底の松前藩軍を狙撃しました。このため、松前藩軍は陣地を維持できず、木間内の陣屋にも火を放ち、俄虫村まで後退しました。 

この戦闘の結果、松岡隊は鶉村まで容易に進軍し、さらに館城を攻略したのでした。 大正8年(1919)8月に、元松前藩士の蠣崎知次郎ほか有志が、この古戦場に碧血碑を建立して、戦没藩士らの霊を弔いました。

(文化遺産を活かした「素敵な過疎のまちづくり」推進協議会,2015『厚沢部町文化遺産マップ』より)