松前藩が安政年間(1855〜1860)に厚沢部川流域の農業開発のために開墾役所を設置したと言われています。松前藩の資料的な裏付けはとぼしく、増田家文書「館村開墾場絵図」によって現在の推定地付近に「開墾御役所」が確認できます。

開墾役所跡は、道々29号の北側、厚沢部川右岸で、館川と厚沢部川に挟まれた段丘面上で、現在は農地になっています。昭和42年(1967)の農地造成のため痕跡は失くなりましたが、波佐見産のコンプラ瓶が採取されています。

(文化遺産を活かした「素敵な過疎のまちづくり」推進協議会,2015『厚沢部町文化遺産マップ』より)


厚沢部町史『桜鳥』第2巻(厚沢部町史編集委員会1981)によると、古老の記憶として

  • 高さ四尺の土盛りの垣を廻した六、七十間四方の広さをもつ構内に建てられていること
  • 四カ所の出入口の門があること
  • 構内にある中央の大きな建物は米倉で、その東側の建物はお役所庁舎であったこと
  • その規模は五間に十間くらいの規模であったこと

などが記録されています。

 

また、明示21年(1888)に館村鷲の巣(現厚沢部町字富里)に入植した二木小児郎の自伝『福寿草』(1937,厚沢部町教育研究会社会科サークル2003年復刻版を参照)によると、「下舘の原野には米倉掘立柱餘燼数十基」、「舘川の沿岸低湿平野地域には須賀川の下流を利用して、轆轤場を貫通する灌漑溝の設計遺跡」があったことが記録されています。

なお、「轆轤場を貫通する灌漑溝の設計遺跡」は「殿様堀」のことと考えられます。

(2016.1.25石井淳平


開墾役所跡では昭和42年にコンプラ便が採取されています。ほかに砥石1、金属製品1、陶磁器類、礎石が出土したとされます(『桜鳥-厚沢部町の歩み-』第2巻,p86)。陶磁器類の破片のうち2点がコンプラ瓶で厚沢部町郷土資料館に収蔵されています。

コンプラ瓶はともに呉須でアルファベットが書かれています。写真の2点のうち、左側は「JAP」の3文字、右が「A.」の文字が読み取れます。コンプラ瓶に書かれるアルファベットには「JAPANSCHZOYA.」(醤油)と「JAPANSCHZAKY.」(酒)があります。写真右側の破片は「A.」となっていることから、この破片は「JAPANSCHZOYA.」(醤油)に該当すると考えられます。

なお、北海道内のコンプラ瓶の集成は長沼孝氏(1997「コンプラ瓶」『考古学に依る日本歴史』10体外交渉,大塚初重ほか編,雄山閣)や関根達人氏によって行われています。