2020年5月作成

木曽の阿寺軽便軌道です。

阿寺軽便軌道を紹介している史料の中で、最も古いものの一つが、です。関連個所を抜粋します。以下の抜粋・引用中の()内は筆者注記です。

高野山森林鉄道開発史を調べた時、明治36年に大阪の天王寺公園で日本最大の見本市である「第五回内国勧業博覧会」が開かれ、農商務省山林局や大阪大林区署が大々的に展示し、解説書やパンフレットを作成しており、しかも内容が非常に正確であったことを思い出しました。明治34年に開設された軽便軌道ですから、何か載っているのではないかと思い、国会図書館で検索してみました。すると、その名も「第5回内国勧業博覧会御料局出品説明書・宮内省御料局編・明治36年発行」がヒットしました。博覧会会場に飾られた全国の御料林展示写真などの説明文となります。関連個所を少し長いですが引用します。

・「阿寺森林鉄道ハ明治三十四年ニ於テ木曽阿寺入御料林内阿寺川ニ沿ヒテ敷設セラレ軌道幅二尺延長三千八百五十間(6.999km)ニシテ一端ハ御料局製板場ニ起リ一端ハ木曽川ニ達ス製板場ニ於テ製作セル白木材ヲ搬出スル主要機関ナリ」

・「本鉄道ハ汽罐(蒸気缶)ヲ用ヒス其登陟(とちょく)スルニ当リテハ多少人力ヲ要スト雖(いえど)モ其下降スルニ当テハ専(もっぱ)ラ勾配ヲ利用シ自動運転セシメ且運搬車ハ刃留ノ装置ヲ付シ自由ニ速力程度ヲ増減スルニ便ナラシム」(当時は手乗り下げと言う用語は無かったのかもしれません)

口絵

 

以上をまとめますと

・開設:明治34年(軽便鉄道開業後ただちに製板場も開業?)

・軌道幅(軌間):二尺

・延長:3,850間(6.999km)

・起点:御料局製板場 終点:木曽川 (阿寺渓谷キャンプ場の数百m上流から阿寺口木材置場まで?)

・運搬品 製板場で加工した白木材(角材)

このほかにも、伐木所と伐木所鋸工場の記述があります。これも引用します

・阿寺伐木事業所ハ木曽阿寺入御料林内阿寺川沿岸ニ在リ官行伐木ノ際吏員ノ宿泊用トシテ建設セラレタル小屋掛ニシテ外観ハ価値ナキ山小屋ニ過キサルモ夏時山緑ニ水清ク涼風徐ニ来ルノ時実ニ仙境ノ想アラシム

・本鋸工場ハ明治三十四年中木曽阿寺入御料林内ニ建設セルモノニシテ其目的タル山間僻地ニ生立スルもみ、つが、なら等ノ木材ヲ水力ニヨリテ製板シ本御料林内ニ敷設シタル軽便鉄道ニヨリ搬出シ旧来廃物視セル木材ヲ利用セントスルニアリ

これまで謎だった、阿寺軽便軌道の本当の開設目的、起点、終点、延長、更には鋸工場の事も知ることが出来ました。巨大な丸太を運ぶ目的ではなく、廃材となる木材を伐出現場で角材に製材してから軌道で搬出する目的だったんですね。

非常に信頼性の高い史料ですが、まだこれしか見つかっていません。更に探索は続きます。

 

2020年6月追記

ついに以下の資料を国立公文書館で目にすることができました。

・明治36年度調整 阿寺事業区 面積簿

・明治36年度調製 阿寺事業区 林値簿

・大正3年度調製       阿寺事業区検訂施業案説明書

・大正3年調製           阿寺事業区 林値簿

それぞれの史料から様々な情報を得ることができました。

「大正3年度調製 阿寺事業区検訂施業案説明書 搬路及経路」を主軸に情報をまとめます。

 

阿寺御料地の口元より伐木事業所に至る阿寺林道

開発史年表

明治27年 林道(歩道)開削 2076.5間(3.775km)

明治34年 上記林道を、改修及び北沢合流点の前まで延伸し、延長3850間に全線軌間二尺 12ポンドレールの軽便鉄道を布設

     (102班の鋸工場が起点 対岸の204班に伐木事業所がありました。)

明治39年 御料地外に497間布設 ここから以降は14ポンドレールを使用

明治40年 阿寺川を遡上(詳しい経緯は不明 900間×2)

大正3年度 1350間延伸し189班に到達。ここで、約5900間(10.726km)の森林鉄道となる。 

     平均勾配は約1/20、最急勾配1/15、最小半径8間の規格だったそうです。

     上登は人力 下降は勾配による自動運転 2両連結 平均11尺〆積載

大正4年度計画 野尻製材所-野尻停車場間軽便鉄道布設計画あり 延長726間 軌間2尺半 勾配1/25 最小半径30間

     246班に旧官舎があった。

出典:国土地理院 電子国土Webに黒文字を追記

防護工事

明治38年度 字悪沢 砂防工事

明治40年度 ニノ渡橋梁 防備工事 共に軽便鉄道の工事

大正元・ニ年度 字舟渡の大川払込場 護岸工事

製板場

明治38年 水力による円鋸設置(明治34年の可能性が高い)

明治42年 木曽川左岸に製材所建設

明治44年 火災

大正2年    復旧

 

明治36年の記事と組み合わせて読み解くと、これまで伝えられてきた阿寺軽便軌道とは異なる姿が見えてきます。

敷設当初より、トロッコ軌道の規格としてはごく普通の6kg軌条(12ポンド)を使用し、当初は製板場で加工された角材を大川に降ろし、のちには丸太も運ぶようになったようです。そして、野尻製材所ができたことで、丸太を運ぶようになり、明治41年には索道で大川を越え野尻製材所に木材を渡し、大正4年には、野尻停車場まで森林軌道が繋がります。その後、「山林第557号 木曽御料林に於ける運材新施設」(大日本山林会編 昭和4年4月号)によりますと、

・阿寺軽便鉄道 軌条20封度・軌間二尺六寸(762mm)・延長8.2哩(13.1km)・大正14年復旧・大正12年出水により線路の大部分流失に付経費は其復旧のみを掲記せり・最小曲線半径15間・最急勾配17分の1

・野尻森林鉄道 軌条18封度・軌間二尺六寸(762mm)・延長0.9哩(1.4km)・大正4年実行

()内筆者追記 との記述があり、阿寺軽便鉄道は全線再建設され、トロッコ軌道から森林鉄道に生まれ変わったこと、大正4年の計画だった野尻森林鉄道が実際に実行されたことが判ります。

 

2020年7月追記

最初に引用した「帝室林野局五十年史・昭和14年発行」に、なぜ、阿寺軽便鉄道のメインの仕事が 、鋸工場で製材された角材を山から下ろすことではなく、作業員用の米や味噌を運び上げることと記されたのかとても不思議でした。その要因の一つかもしれない報告を発見しました。

昭和3年から発行が開始された、「御料林」という機関誌があります。その第26号(昭和5年7月発行)に「木曽谷伐木の労働組織を回顧す」という報告が載っています。木曽谷で伐木する際、現場では、どのように役割分担され、組織化されて作業を行っていたか、旧時代の木曽式運材方法から、新時代のトロリー運材にどう変化していったかを、非常に詳しく述べられています。67頁に、木曽谷の阿寺に初めてトロッコ軌道が作られた時に、旧時代の役割分担や慣習に大変革をもたらしたと記されています。その概要をまとめますと以下のようになります。

・旧時代(木曽式運材法)伐木所で働く人たちは大きく分けると以下のような役割分担でした。給与は現物支給です。

  会計掛:裏方さん(日用品の仕入れや炊事など様々)

  現業掛:杣夫(伐木担当)/日雇い(運材担当)

・明治37年(明治34年 筆者注)に阿寺軽便鉄道が敷設され、トロリーに積まれた木材の乗下は日雇人夫の手に余ったため、「トロ乗人夫」という労働者が出現し、川を流すことしか知らない日雇人夫の心胆を寒からしめた。新時代の幕開けです但し、暫くは阿寺の谷だけでした。

・大正5年小川森林鉄道が開通し、旧時代の古谷狩は森林鉄道に取って代わられ、旧時代の山落しは作業軌道となった。青森・秋田・土佐の人たちが続々と入りこみ、裏木曽谷出身の人夫達は「怪物のトロリー」に馴れ切れず、旧時代の現場に逃避する外なかった。

・旧時代の日雇人夫達は、米九合・味噌四十匁の給与を受ける日給払いだったが、侵入者である新時代のトロ乗人夫等は、工程払い賃金となり、現物支給ではなく「自分飯」で働くようになった。

・山中に人夫の為の売店が設けられ、必要なものを自分たちで購入するようになった。山奥の王瀧伐木所が大正7年にとうとう米・味噌の現物支給を廃止したので、現物支給はすべてなくなった。これによって、旧時代の日用品等の仕入係など多くの仕事が不要となり失業してしまった。旧時代では木曽・裏木曽出身者に限られていた人夫らは、新時代の昭和4年には33県の出身者に広がっていた。

・替わって新時代では、ガソリン機関車運転手・保線夫・積込人夫など、新たな労務が産まれた。

 

以上のように、阿寺迄までの旧時代では、給与が現物支給で食料の運搬は給料の運搬であり、非常に重要な仕事でした。また、阿寺が引き金となって労働組織に大変革が訪れることになった、などの要因が重なり、木材運搬手乗下げより、米・味噌運び上げが強調されるようになったのかもしれません。新技術が旧技術を駆逐する時の悲哀は、どの時代でも同じなのだと感じさせられます。

翻って、高野山ではどうも逆の事が起こっていて、維新以前は寺領だったため、組織的な大規模な伐採方法が整っておらず、明治20年頃は、他の地方からの出稼ぎ者が多かったようですが、地元民が仕事を覚え、主流を占めるようになって行ったそうです。

 なお、トロリー以前の木曽伐木運材法での労働組織については、大日本山林会報第161~171号(162号除く)明治29年5月以降順次発行の「木曽伐木運材聞書 吉田義季著」に、詳しく載っています。吉田氏は農林大学学生です。この連載中の168号に日本で最初の森林軌道であるほおずき山の記事が、農林大学教授の手で報告されます。もしかしたら、吉田氏は旧時代の木曽式伐木運材法の研究をしつつ、ホオズキ山で新時代のトロッコ運材法を見学していたかもしれません。なんという因果でしょう。

 

最後に

国立公文書館だけでも、まだまだ明治・大正・昭和の文書が眠っています。今回の発見が呼び水となって、阿寺、ひいては木曽全体の森林鉄道の真のストーリーが判明することを願っています。

 

引用文献

・明治29年5月以降順次発行 大日本山林会報第161~171号(162号除く) 「木曽伐木運材聞書 吉田義季著」

・明治36年発行 第5回内国勧業博覧会御料局出品説明書 宮内省御料局編(国会図書館デジタルでダウンロード可能です)

・明治36年度調整 阿寺事業区 面積簿  以下の4文献は国立公文書館にて全頁写真撮影

・明治36年度調製 阿寺事業区 林値簿

・大正3年度調製       阿寺事業区検訂施業案説明書

・大正3年調製           阿寺事業区 林値簿

・昭和4年4月発行 山林第557号 大日本山林会編 「木曽御料林に於ける運材新施設」

・昭和5年7月発行 御料林 第26号 「木曽谷伐木の労働組織を回顧す」

・昭和14年発行 帝室林野局五十年史 帝室林野局編(国会図書館デジタルでダウンロード可能です)