明治2年の「版籍奉還」と明治3年の「社寺領現在ノ境内ヲ除ノ外一般上知被仰付」によって、高野山の寺領が官林となります。

 明治2年の民部省地理院司の所管に始まり、所管をたらい回しされ、明治11年4月に5大林区が制定され、同年7月に6大林区に変更され、同時に青森はじめ4県が内務省の直轄となり出張所が設けられます。これまでは、官林とは名ばかりで県が管理していたのですが、明治12年に和歌山県が内務省鶴局直轄となり地理局出張所が設けられます。その後、山林局出張所、農商務省山林事務所と改称され、ついに、明治19年に現代の営林局や森林管理局官制につながる大小林区署官制が始まり、和歌山大林区署高野小林区署が高野山に置かれます。明治22年9月に大林区署が再編され、和歌山は大阪大林区署に編入されます。

明治19年9月1日「用地受領ノ件」として、紀伊国伊都郡高野山字蓮華谷453番地 官地184坪を和歌山大林区署要用により農商務省に組み替えるとの書類が、国立公文書館に残っています。これが、高野小林区署最初の官舎だと思われます、

 明治19年以前は、官林の確定のための調査や保護に重点が置かれていたため、高野官林についての目立った記録は発見できていません。明治16年ごろの和歌山県統計書の記録では、「著名官林ノ段別及木数」の項目に、高野村26字名と各面積と木数が記録されています。

 明治19年になると、以下の表のように、和歌山市の木材商が高野官林の払下げを受け俄然動きが活発になります。想像でしかないのですが、吉野の山林王である土倉庄三郎氏と和歌山市の木材商が手を組み、契約などの表には木材商が立ち、伐木運材などの実業面では土倉氏が指揮を執ったのではないでしょうか。土倉氏は、林業で大切なのは運搬である。運び出さなければ宝の持ち腐れだと考え、実践している人でしたので、不動谷川では吉野で自ら行っていた川を削って管流しする手法を実践し、陸運では、四国の陸運方法から学び、本格的な伐木運材用に木馬道を張り巡らしたのではないでしょうか。そして、明治19年頃は鳴戸川流域を、明治25年からは御殿川流域や神谷周辺を伐採していたかもしれません。

・明治19年10月 十津川村の人が木材搬出が数か月遅れているが頑張る。との契約書

・明治19年12月 高野山での木材陸運は専ら「キンマ」である

・時期不明   高野山の木材を紀の川に出すために、大和の土倉庄三郎等の経営にて椎出より九度山の浦まで木馬道を開いた

        雨の森の淵では土倉氏の流筏以来ダイナマイトをこの淵に投げ込んで漁をした

・時期不明   木馬運搬法の発端は土倉氏の高野山払下に方りて使用したるを第一着手とする

・明治21年   矢立から九度山まで木馬道建設の契約を通過各村と木材商が結ぶ

・明治25年   華阪から川岸までの木馬道と車力の運賃表

        官林から神谷経由で木馬道を開削

        尾鷲ではこの年に土佐人夫よりキムマが伝わり実践された

・明治36年   明治21年~36年の植栽場所は、鳴戸川流域・御殿川流域・神谷周辺が多い

参考文献(追加)

・著名官林ノ段別及木数(和歌山県統計書明治16から19年)

・九度山を中心に(松山常次郎著・大正9年2月発行)

・伐木運搬費ニ就キテ・和歌山県伊都郡高野山檜伐木費(岩橋三造著・大日本山林会報告第115号・明治25年7月発行)