工事中

 

明治38年、官行斫伐開始時には、この場所は字名の「森ノ奥」と紹介されています。

とても意外なのですが、官民境界に接していているのですが、神谷隧道部分以外は民地にあります。歴史的な流れを見るとその理由が判ります。

官行斫伐が始まる前の立木払下げが、明治20年代に始まり、塵無土場からここまで、「キンマ」で木材が運ばれていました。

立木払下げとは、官林に生えている木だけを入札などで払下げ、払下げを受けた民間業者が、伐採し運び出す方式です。

官行斫伐とは、伐採やら運材やらすべてを官が行うものです。

ですので、明治20年代は、官民境界の民側に民が土場を建設しました。高野山の場合、明治38年に官行斫伐が始まった時に、それまであった土場やキンマなどの設備をそのまま管が利用しました。ですので神谷の土場は民地なのです。しかし、3林班線(当初は24区線と呼ばれ、現在では森脇林道と呼ばれます。)と幹線(塵無土場から来る線)を立体交差させるために、神谷隧道の建設が必要となり、そこだけ官が買取ったのです。境界線が山並に沿わず出っ張っているのはそのためです。ですので、幹線が「キンマ」から「軌道」に改良された大正2年に「キンマ」と「軌道」の立体交差が実現したと思われます。

 

このように、明治20年代から昭和30年代の約70年間の歴史を持つ神谷土場ですが、埋め立てられたり、歴史が長すぎて土場内の路線変更なども重なり、時代を追った道筋の正しい確認が困難です。あくまでも仮説ですが道筋を追います。

 

    キャプションを追加

 

昭和43年撮影の地理院地図空中写真に判明している道筋を重ねました。

    

軌道がまだ敷設されていないので、撮影が明治時代と思われる写真を載せます。上の空中写真に撮影ポイントと撮影方向を記しました。写真の左半分が三角広場になります。手前の人物の立っている場所は、軌道化された時は、二連橋に向かう出線ルートとなります。頭上の小屋の後ろ側を右上から左下に斜面下って入線します。三角広場でスイッチバックします。幹線は単純に手前の人物の所を左から右に抜けて行きます。正面の丘の上の森は村の墓地です。土場と言っても、山の頂に近く大きな川も無い場所なので、丘の斜面の段丘を利用した造りです。

 

明治38年 官行斫伐開始時は、幹線も3林班線も「キンマ」でした。土場への入線は、幹線のキンマも3林班線と同じ斜面から土場に入ったので、立体交差ではなく、合流という形でした。上の写真を見ると、右上に修羅のようなものが見えます。入線したきんまは、ここまで下りずに、上から修羅落しして右斜面を転がり落としたのかもしれません。出線は、キンマで神谷辻方向に向かうので、この撮影ポイントの真後ろ側に出て行きました。小さな谷があるので橋が架かっていた可能性があります。

明治42年度から、キンマを軌道に改良する工事が始まります。軌道はキンマに比べ、勾配を緩くしないといけないので、幹線の入線ルートが全く変ってしまいました。そこで、神谷隧道を掘って、3林班のキンマと幹線の軌道を立体交差させました。この隧道部分だけ官地になっているのは、大きな土地の改変を行うためではないかと思われます。。出線は谷向こうの神谷インクラインに向かうために、人物の立っている路盤を右方向に進んで、二連橋で谷を越えて行きます。三角広場では、キンマとトロリーの積み替え作業を行っていました。長らくこの体制が続きます。

昭和25年度 6林班線が開削されます。廃品置き場の端にある、橋脚跡が建設された時です。この時まで、廃品置き場と神谷の切通しの間に道筋はありませんでした。隧道前に入線した幹線は、コンクリート橋を渡って、6林班線に入りました。

昭和31年度に高野林道幹線が自動車道に改良されます。この時、3林班線は昭和34年度の全線自動車道化まで軌道のまま運用されます。この廃品置き場が積替え土場となった可能性が高いです。

神谷土場の境界見出標

以下の経営図のように、神谷土場の軌道と交わるように、官林が突出している所があります。(黄色矢印の先)

この図は、他の図に比べて上下が逆になっています。

ここは、神谷隧道のある場所です。周辺に5-6点、境界見出標が刺さっています。GPS座標測定したところ、下図の黄色線となりました。

丁度、神谷隧道の周辺が出っ張っています。

神谷隧道開削の為に、この部分だけ別途官が購入したものだと思われます。