九度山町では以前、町史を編さんするにあたって町史編纂室が存在し、冊子を上梓するまでほぼ毎月、「広報くどやま」に「町史編さんだより」を掲載していました。その内容を転載します。

以下、平成8年2月号の記事です。

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町史編纂室では、皆さんのご協力を得ながら史料の調査を行っています。その中には、先祖の方々の日々の生活に密着した史料がたくさん発見されています。

丹生川地区の丹生神社に保存されていた古文書の中に、寛延3年(1750)8月に、井之本善左衛門と云う方が書いた「鐘建立造用帳」があります。内容は丹生神社に隣接する円通寺の釣り鐘を鋳物師が円通寺まで出張して来て鋳造した珍らしい記録ですから、これに基づいてご紹介します。

円通寺の鐘が傷んできたので、寛延3年5月30日願主善左衛門の家で初会合をしました。庄屋坊孫兵衛・肝煎青渕弥次兵衛・同上平孫太郎・下垣内甚兵衛の代理伊之助・円通寺・願主弥次兵衛・同善左衛門・同平五郎の八名で相談の結果、先勧化(かんげ・寄附を募ること)と話が決まり、早速弥次兵衛が酒二升持って学文路村大庄屋作太夫殿の家まで行き許可を得ました。この話を聞いて、6月16日小田村の金作が「鐘の義は私におおせ付け候へ」と頼みに来ましたので、金作に請負せる事にしました。

それからは、全員で寄附集めや材料集めを行っています。集まった材料は次の通りです。

古釣り鐘一二五貫目・古竿かね十五貫目・トタン(亜鉛)二貫目・錫かね三貫目・新しい竿かね二貫目・古鏡八貫目で合計一五五貫目(581kg)、堅炭八〇俵・その外藁・麦わら・杉板・竹・紙・米二石・木材・鋳物用土など多数です。

その内、鏡が三十四ヵ村から八五枚も集まり、中には遠く泉州や熊野から寄進された物があります。

8月1日から鋳造の準備にかかります。

 

1日 鋳物用土を学文路村こぬか地蔵のそばで採って運ぶ。
2~4日 和歌山からの荷物を小田村から運搬する。
3日 拝殿の囲炉裏の上塗。
6日~ たたらの普請・型持ちなど。たたらを据えた場所は、中居平の大家源太郎と云う人の土地。十日石つき・型入れ。
16日 世話人が買物をする。16~17日鐘鋳場の見張番をする。
17日 餅つきをする。
17~19日迄 らくしや。宝蔵寺・永楽寺・阿弥陀寺・円通寺・同弟子房。

 

これを見ますと、8月1日から16日迄が鋳造場を作ったりする準備で、17日から本格的に火を起して19日迄徹夜でたたらを踏んで金属を溶かし、19日早朝無事に鋳造が終わったと考えられます。その間寺の本堂では、坊さん達が護摩を焚いて作業の安全を祈願していたようです。

 

たたら踏の作業は大変な重労働ですが、多摩・川筋・青渕・林・上平から十六人が出ています。

この間に鐘堂の建設は、和歌山から来た宮大工と手伝いの人達で無事に終る。19日鐘を寺迄運搬、村の若衆三〇人程と河根村からの応援九人で行う。

使った費用は、鋳物師一五四工(日)・人々の奉仕三四五工半・銀一貫八四三匁九分八厘と木綿二反でした。

鐘堂に無事鐘が納ったのを祝って、村から酒二升と素麺五包が届けられていますが、清水村・河根村・坊・下垣内・棟・橋本からも酒や素麺が届ています。この日村の人達は大いに飲んで、鐘の完成を祝った事でしょう。

記録は以上ですが、新しく生れ変った鐘は、永く野良仕事、山仕事に疲れた人々の心を慰め、心の拠所であったと思われますが、残念な事に今はありません。

天保10年に完成した「紀伊続風土記」に、「円通寺・自性法院真言宗古義仁和寺末・本堂僧坊釣鐘堂あり」とこの鐘の事を書いています。そこで古文書を探して見ますと、寺の絵図(明治九年井本善四郎印)と、丹生神社造営記(明治一八年旧正月十一日伊本善四郎)が見付かりました。絵図には、鐘堂がはっきりと描かれていましたが、造営記には、鏡が無くなった経緯を「明治十六年旧十二月五日午前九時頃、名倉村木挽職某、当社ご神前の拝殿の籠所より出火、烟火甚だ急にして、円通寺釣鐘堂に火掛り、已にして木小屋、宝蔵ならびに観音堂に至るまで悉皆灰塵となる。以下略」と書いています。