九度山町では以前、町史を編さんするにあたって町史編纂室が存在し、冊子を上梓するまでほぼ毎月、「広報くどやま」に「町史編さんだより」を掲載していました。その内容を転載します。

 

以下、平成8年5月号の記事です。

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宗興の手紙は全部で五通ありますが、そのうち三通は「篁堂(こうどう)」という名前、二通は「中村竜太郎」という名を使っています。宛名はすべて岡左仲様です。

篁堂名のものは、入郷時代のもので、岡家へ和歌山まで手紙を届けて下さいという依頼状や、岡家の御子息二人の教育方針について述べたもの、書籍を買いたいので、本屋仲次郎に七両持たせて大坂まで行かそうと思いますが、大丈夫でしょうか、など生活のにおいのするもので、宗興が学問に打ち込んでいた様子がうかがえます。

ところが、中村竜太郎名のものは内容が一変します。二通とも文久元年から二年のもので、発信地は江戸です。

宗興は文久元年6月に、御赦で藩士に復帰していますから、藩に無断で江戸へ出ることは罪になります。

事実この後追手が送られました。そのため中村竜太郎という偽名を使っていたのです。宗興直系の方に、この名前について問い合せましたが御存知なく、文字や内容から宗興のものと確認して戴きました。

文久2年1月9日付のものを紹介します。

 

「新年の御慶万里同風目出たく申しおさめ候、貴家の皆様方には、お元気で新年を迎えられたことゝお慶び申し上げます。熊太郎君も御成長なされたことゝうれしく存じます。私も小二郎ともども無事新年を迎えましたので御安心下さい。新年の祝詞として一書を差し上げます恐惶謹言

正月九日 中村竜太郎

岡左仲様

二陳 左五兵衛殿方へも新年の御祝詞を御伝え下さい。米価はじめ諸物価が値上りして暮し向が苦しくなり、中以下の生活者は大層困っています。入郷村の様子はいかがですか、嘆願筋も何とか良い結果が出ますようにと気掛りです。私共の老母が随分御世話になっていることゝ存じますので、左五兵衛殿へよろしく御伝え下さい。

玉置周節方へ十二月五日頃参り、貴殿からの紹介状をお渡しして、私の考えを御聞き戴きましたところ、周節殿は賛同されお願いした隠れ家は、薬研(やげん)堀で一軒お借りすることが出来ました。

十二月六日の夕方霊岸(れいがん)島へ帰り、二、三日中に引移る予定でしたが、在番(ざいばん)二本榎から頼まれ、皇女和宮様御下向(げこう)のことで名古屋へ行くことになり、急拠九日に江戸を出発。本日一月九日二本榎へ帰り着いたところです。周節方へは小二郎に手紙を持って行かせ連絡しておきました。

和宮様御下向の時は、幕府はじめ各大名家は申すまでもなく、街道筋は大混雑でした。

江戸や街道筋の諸国では小銭が大変不足しています。当百銭(とうひゃくせん)は一両に対して六貫六百文、小銭は一両に対して五貫五百二十四文の相場ですが、この小銭は皆鉄製の粗末なものです。昨年末から銅銭の回収が始まりましたので、庶民は新しい小判より銅銭を大切にしています。

周節や家内が貴家へよろしく御伝え下さいとのことです以上」

 

この手紙で、宗興と宗光が合流していることが分ります。左五兵衛殿とは入郷で家を借りている庄屋玉置左五兵衛で、この頃母政子はまだ入郷に住んでいたことが分ります。

嘆願筋とは、紀州藩の政治改革を直訴することです。

宗興が訪ねて行った玉置周節については、岡左仲の友人で早くから江戸で開業していた漢方医であることしか分っていません。

宗興は入郷を脱出する時左仲から紹介状を書いて貰って持参し、直訴運動への協力を依頼したのです。

その結果、周節から薬研堀(江戸の地名)で隠れ家として家を一軒借りることが出来ました。という報告が此の手紙の要点です。