九度山町では以前、町史を編さんするにあたって町史編纂室が存在し、冊子を上梓するまでほぼ毎月、「広報くどやま」に「町史編さんだより」を掲載していました。その内容を転載します。

 

以下、平成8年8月号の記事です。

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延享4年、勝利寺仁王門建立の資金集めのため大阪でご開帳されました。

江戸時代の生玉社

  1. 所在地 現大阪市天王寺区生玉町
  2. 祭 神 生島神・足島神
  3. 本地仏 薬師如来(神の本地である仏)

左の図を見ると、神様と仏様とが融合調和している神仏習合の生玉社の姿が、よく表れています。

  • 本地堂の薬師如来像―聖徳太子の作
  • 大師堂の石像―弘法大師の自作

であるといわれ、崇拝されてきました。また神事を司る社僧の長は、高野山南院(下古沢の地頭)の僧が当たっています。

明治維新の神仏分離の政策で、生玉社は官幣大社に格付されると共に、仏教に関係する諸堂は、総て取り壊し現在は社殿のみとなっています。しかし「真言坂」という地名が残り、高野山真言宗との関係の深かったことを示しています。

勝利寺の創建

明治初年に銅版印刷した縁起によると、弘法大師が弘仁8年(817)高野山金剛峯寺を開創する以前に創建された寺で、秘仏の十一面観音は大師四十二歳の除厄のため、自ら彫刻した像です。また、干栗駄鏡はこの寺の宝物ですが現在所在不明、直径20cm程の銅鏡に仏・梵字を刻む御正体であったと推測されます。

秘仏・寺宝に霊験がありなかでも最も難病と恐れられたらい病に効験があると信じられてきました。鎌倉時代、紀伊国の武将・湯浅権守がらい病で苦しんでいましたが、三十七日間当寺で祈願したところ、完治したと伝えられています。

生玉社での出開帳

延享4年(1747)2月4日、秘仏の十一面観音像・干栗駄鏡・弥勒曼茶羅・弘法大師御影像等を奉じて生玉社をめざして旅立ちました。

  1. 寺脇村(東家)庄右衛門宅や紀見峠小原屋で休憩、河内国上田村田中平馬方で宿泊
  2. 5日は石川三郎右衛門宅や福町大坂屋平兵衛で休息堺大寺宝生院で泊
  3. 6日は天下茶屋を経て生玉社に到着

この時の行列は、半鐘 - 長持八つ - 提灯 - 弘法大師幟 - 旗 - 伴僧二人 - 御輿 - 弥勒尊幟 - 伴僧二人 - 御興 - 御遺髪塔 - 本尊箱 - 本尊幟 - 霊宝長持一 - 旗 - 若党二人 - 伴僧二人 - 持旗 - 御童子 - 御輿 - 長刀 - 狭箱 - 若党二人 - 伴僧二人 - 住持駕篭 - 傘・草履取 - 荷狭箱 - 合羽篭二 - 長持一 - 乗掛二駄の順でした。

勝利寺の僧は駕篭に乗り草履取まで伴っての行列です。総数百名を越えているでしょう。大名行列を思わせる編成となっています。


到着すると、まず寺社奉行の許可を得て、数ヵ所に立て看板をたてる広報活動から始めます。

本地堂での開帳の準備が整い、2月15日より4月15日迄の2ヵ月間開帳しました。

天下の台所大阪での開帳だけに、多くの人々が参拝され、この開帳の8年後の宝暦5年(1755)9月3日勝利寺仁王門(楼門)の上棟式、翌年三月に竣工していることから、出開帳は所期の目的を達成したと思われます。

このような生玉社と勝利寺の結びつきも、明治維新の排仏毀釈によって絶縁され、生玉社の本地堂が建っていた跡地には、文豪井原西鶴の銅像が建ち、その上社も書類も戦災によって焼失し、勝利寺に関する記録は何一つ残っていません。

勝利寺仁王門をくぐる時今一度、二百余年前に建立された先人の行跡をしのびたいものです。