安叟宗楞(あんそうしゅうりょう(1)、1387年? - 1484年(1))は、曹洞宗の僧侶。湯河原町宮上・保善院の住職だったとき、弟子の智海宗哲が創建した久野・総世寺の開山となった。また没後に保善院が早川に移されて創建された海蔵寺の開山とされている。
経歴
嘉慶元年(1387)、駿河国に生まれる(1)。
- 『風土記稿』久野村 総世寺の項によると、土肥宮上村(湯河原町宮上)保善院の伝灯記には、「禅師字安叟、諱宗楞、藤氏也、大森信濃守頼春公の俗弟/寄栖庵之伯父也云々」とあり、大森氏(藤原氏)の人とされていた(3)。
- 俗姓は源氏ともいう(1)。
大綱の没後、春屋宗能に師事し、その法嗣となる(1)。
相模国・小田原城主の創建した久野・総世寺、土肥の檀越の建てた宝(保)善院の開山となる(1)。
- 総世寺の寺伝では、足柄下郡(箱根町)塔ノ沢の塔峰阿育王山に草庵を結んでいた安叟が文安2年(1445)に同寺を創建した、としており、この年号は寛文12年(1672)の久野村の記録にもあるが、本寺にあたる海蔵寺の寺伝では、総世寺の開山は安叟の弟子・智海宗哲とされている(3)。
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『風土記稿』早川村 海蔵寺の項によると、海蔵寺は、嘉吉元年(1441)に安叟によって創建されたという(4)。しかし、『曹洞宗人名辞典』によると、享禄元年(1528)に北条氏綱が、宝善院を早川に移し、海蔵院(寺)と改称させたという(1)。
- 按ずるに、安叟は土肥(湯河原町)の保善院の住職で、存命中(1445年より後かもしれない)に弟子の智海宗哲が小田原に総世寺を創建、安叟の死後、1528年に保善院が早川へ移されて海蔵寺が創建されたと思われる。海蔵寺も開山を安叟としているが、小田原での創建時の開山は別人であろう。総世寺は海蔵寺の末寺であるが、小田原での創建は総世寺の方が早かったと思われる。
文正元年(1466)、最乗寺に住す(1)。
文明2年(1470)、駿河・定輪寺に入り、総持寺の住持となる(1)。
『風土記稿』のとき、海蔵寺には、壬寅(『風土記稿』は文明14年・1482と推定)5月9日、安叟の花押があり、弟子10哲と4老の位次を記し、正嫡・天室首坐に付与する内容の書1幅があった(4)。
文明16年(1484)9月22日に死去、享年98(1)。
法嗣
天室正運、模堂永範、学甫永富、無方相、竺翁国符(円符(2))、智海宗徹(宗哲(2))、材庵正棟、石宝明林(石室妙琳(2))、天叟梵林、光応威、華叟明林(系譜になし(2))。(1)
参考資料
- 稲村坦元『曹洞宗人名辞典』国書刊行会、1977、p.130
- 『曹洞宗全書 大系譜1』曹洞宗全書刊行会、1976、p.564
- 『風土記稿』久野村 総世寺
- 『風土記稿』早川村 海蔵寺