足柄騒擾事件(あしがらそうじょうじけん)、水道事件(すいどうじけん)は、1933年(昭和8)7月14日に足柄村で起きた騒擾事件。1932年(昭和7)11月から小田原町が推進した同村富水地区上水道の水源地を建設する計画を巡って、1933年初から飯田岡を中心に反対運動が起こり、候補地を飯田岡から清水新田に変更して計画が進められたことや、富水地区によるへの建設反対の陳情に回答が無いまま、同年5-6月に県による調査・試掘が行われたことから、これに反発して富水地区の消防組や村の有志約300人が、試掘場を破壊し、建設に賛成した村の有力者4人の家を破壊、制止しようとした警察官にケガをさせるなどした。

事件後も水源地の建設は進められたが、動機は地域全体の意思表示として同情を集め、足柄村は水源地選定に反対する決議をし、足柄下郡町村会は、事件被告人の減刑請願を行い、また事件の責任者として足柄村長と小田原町長に辞職を勧告。足柄村長は辞職した。

1934年(昭和9)1月31日に横浜地裁で事件の被告人33人に懲役刑(実刑5、執行猶予28)・25人ないし24人に罰金刑が言い渡され、1935年(昭和10)4月18日に大審院への上告が退けられ、実刑が確定した。

経緯

水源地建設問題

明治時代以来、小田原町の上水道は、早川から取水している小田原用水に頼っていたが、水質が悪く、夏場に度々、コレラ赤痢などの感染症が流行する原因となっていたため、代替的な水源地の建設が課題とされていた(2)。1927年(昭和2)には、小田原町会において「小田原水道町営案」が可決され、また1929年(昭和4)6月には、上水道敷設委員20人が推薦されて、上水道敷設の動きが強化された(7)。しかし、当初計画で有力視されていた須雲川湯本茶屋からの取水案は、湯本町の反対にあって、国や県の許可が下りず、計画は頓挫していた(2)(7)。(水源地建設問題

富水案の浮上

そこで、1932年(昭和7)11月、当初計画で「不経済」とされていた、上水道の水源地を足柄村内の富水地区に求める案が浮上し、敷設候補地の飯田岡で交渉が開始された(3)(6)。飯田岡で交渉が難航したことから、候補地を清水新田に移して部落の承認を得(1:79)、小田原町は、清水新田を水源地とする水道敷設計画を策定して、1933年に着手して1936年に完成する案を町会で議決し、国に起債許可を申請した(6)

1933月(昭和8)1月20日、富水青年団の役員会のとき、蓮正寺支部から小田原上水道問題に関して水源地反対運動参加の要求があったが、金子利治団長は、青年団は青年の修養団体であり、反対運動は戸主・消防組・在郷軍人会が主力となって行っているから、青年団として表立って行動はしないと意見を述べ、参加を否定した(1:79)

同年2月4日に、富水青年団の金子団長は、その後、水源地の候補地が清水新田へ移り、部落が承認することになってしまって、団員に申し訳なかったと辞意を表明した(1:79)

  • 飯田岡での交渉の顛末については、文献によって説明が分かれており、播摩1994は、計画は地区の同意を得られず、交渉を重ねるほど地区の反発が強まっていった、としているが(3)、星野2001は、代表者間での合意を取付けられたので、小田原町はすぐに国に記載許可を申請した、とする(5)。しかし、平塚・井上ほか1985にある富水青年団西北支部の記録から、当初、飯田岡を予定地とする案では部落の承諾が得られず、予定地を清水新田に移して部落の承認を得た経緯があることが確からしく(1:79)、金原2001において小田原町が清水新田を水源とする計画を議決したとされていることからも(7)、飯田岡で反対にあったため、計画を変更して清水新田で承諾を得、それが飯田岡や富水地区全般に反発を強める契機となったものと思われる。

建設反対運動

同月から、飯田岡を中心とした青年層により、既設の井戸水や灌漑用水への影響を懸念し、水源地に反対する声が上がり、具体的な活動が開始された(6)。神奈川県警1972によると、反対運動を主導したのは足柄小学校長?の山崎秀源だった(8)

  • 星野2001は飯田岡の青年層が中心だったとしているが、平塚・井上ほか1985によると反対運動の主力は、戸主・消防組・在郷軍人会だったようである(1:79)。或いは、富水青年団の中でも蓮正寺や飯田岡の支部が反対運動に積極的だったようなので(1:79-80)、他の支部と温度差があったということかもしれない。

同年3月、小田原町の水道敷設計画と起債について、内務省大蔵省の認可が下りた(3)(6)(7)

同年4月、足柄村富水地区13部落は、水源地反対決議を小田原町に提出し、県や内務省に反対の陳情を行った(6)

同時期に足柄村内では、小田原町による同村今井地区(寿町)への塵芥焼却場建設に対する反対運動も起こっていた(火葬場移転問題(6)

同年4月23日夜、富水青年団は、蓮正寺支部・飯田岡支部の要請により、小田原上水道設置反対について略式役員会を開催し、各支部に反対連盟への参加の検討を要請した(1:79-80)

同月25日、反対連盟参加に決定(1:80)。ただし、戸主なみに積極的な行動に出ることは差し控える、とした(1:80)

同月26日、金子団長辞任(1:80)。各支部に異議なく、富水青年団は団として水源地反対運動を後援することを決議した(1:80)

「県は小田原町に肩を持つ」

同年5月、県は、内務部長名で水源地の実地調査を開始する旨の通牒を発し、県土木部は同月27日と翌6月11日に調査を実施(6)

同年6月25日、県土木部は、狩川仙了川の合流点で試掘を開始した(3)(6)。当時の新聞報道では、県の古川内務部長が調停に立ち、県が井戸を試掘して、村民が主張するように新設の水道が既設の井戸水や灌漑用水に影響があるか調査することを目的としたとされているが(5)、それまでの反対陳情に対して回答がないまま試掘まで行われたことから(6)、「県は小田原町に肩を持つ」と受け取られた(5)(6)

これに反発した富水地区の住民約40余人は、足柄村長(中山村長)に、村としての建設反対を決議するため、村会を開催するよう要求した(3)(8)

同年7月7日に飯田岡の住民は福伝寺(福田寺)で集会を開き、反対委員80人、実行委員40人を選び、同月11日夜に飯田岡分教場で実力行使の際の決死隊の編成を決めた(8)

同月12日、中山村長は村議・区長協議会(3)(村議会全員協議会(8))を開催したが、飯田岡ほか6部落の消防組が提案した「全村としての反対」は「時期尚早」との理由で研究委員に附託となり(3)、村長は村当局として県の調停に従う意向を示した(8)

騒擾事件

7月14日 小田原上水道反対運動は遂に暴力化し、本日午前2時を期して、富水部落内各消防組の警鐘は乱打され、各消防組は飯田岡に集り、茲に足柄暴動事件は起った(1:80)

村民(消防組)300余名は、村議・区長協議会の結論に憤慨した(3)(8)

同月13日22時頃、反対派の住民は、小台の蓮生寺(蓮乗寺)で飯田岡・堀ノ内の連合集会を開催したが、これにたまたま同所で開催されていた足柄消防組(消防部長・二宮治助)小頭会議が合流して、反対の気勢が高まった(8)

同月14日(あるいは15日(8:384))2時35分頃に、反対派のうち、放火組約30人が、清水新田の中川原にあった県の試掘小屋の事務所に押しかけ、宿直の職員2人を脅し、用意しておいた藁を事務所の周囲に積み上げて放火した(8)。炎が上がると、半鐘が打ち鳴らされ、それまで待機していた足柄13部落の第1部から第6部までの消防組250人と、青年団や村の有志約50人が合流して、飯田岡に集結(8)。事務所は焼き払われ、試掘用の櫓は、消火活動の体で鋸で切り倒され、破壊された(8)。また建設に賛成した飯田岡消防組頭宅を襲って5台のポンプで一斉放水した上、家屋に侵入して建具や家財を破壊(8)。ほか3人の村の有力者宅を、放水したり、鳶口で破壊するなどした(3)(8)。その際に現場に駆け付け、制止しようとした飯田岡巡査駐在所の正村巡査が放水によって転倒し、倒れた所を鳶口等で殴打され、附近の溝田に投げ込まれた(8)

試掘小屋の職員と正村巡査からの連絡を受けて駆け付けた小田原署の警察隊約350人によって、約250人(3)ないし234人(8)が検挙され、騒擾は鎮圧された(8)。被検挙者は、小田原・大磯松田(・平塚(8))の各警察署に分散留置された(3)(8)。被検挙者には、二宮ら足柄消防組の幹部3人、山崎、村会議員・椎野新平と、足柄村の13の区長が含まれていた。同月28日に「騒擾、放火、公務執行妨害、器物毀棄」などの罪で60人が起訴された(3)(8)

  • 星野2001は、検挙60人、起訴6人としている(6)

事後の影響

同年8月18日、富水青年団は、事件収容者の家族の慰問と面会について協議し、実施することになった(1:80)

小田原町には、反対運動が暴動事件につながったことは、却って反対運動の価値を貶め、小田原町にとって好都合だったという見方もあったが(5)、事件は個人的な動機というよりも、地域全体の意思表示と見なされて、広く同情を集めた(3)

(時期不定で)事件後、足柄村は、村内の意見を調整するため村会を開催し、小田原町水道水源地選定反対を決議し、小田原町に提出した(6)

小田原町は、当初、足柄村内の問題としていたが、同年10月に被検挙者の釈放嘆願書を横浜地裁に提出し、足柄村と事件の調停のため?県地方課長の出席を求めるなどした(6)

足柄下郡町村会は、事件被告人の減刑請願を行い(3)(6)、また事件の責任者として足柄村長と小田原町長に辞職を勧告した(6)

同年12月4日に、被告人(のうち)6人が釈放された(6)。(時期不定で)足柄村長は引責辞任した(6)

1934年(昭和9)1月に、小田原町と足柄村の間で水道水源地に関する交渉が行われ、同月31日に協調覚書に調印がなされた(6)

  • 星野2001は、足柄村との間で「最終的な交渉」が行われたとしているが(6)、『片岡永左衛門日記』の同月16日の記述によると、清水新田(部落)との交渉が成立し、小田原町内で着工が承諾されたに過ぎないようでもある(5)

同日、横浜地方裁判所での刑事裁判で、事件の被告人33人に、2年6ヵ月をはじめとする懲役刑(実刑5人、執行猶予28人)、25人ないし24人に、40円をはじめとする罰金刑の判決が言い渡された(3)(6)

小田原町による上水道敷設工事(飯田岡水源の掘削)は着実に進行し(3)(6)、同年4月に、6本の削泉が放流を開始した(3)

同年11月13日、富水青年団は、足柄騒擾事件控訴公判について、被告となった団員3名に対し減刑嘆願書に記名捺印、さらに各支部について3冊ずつ作成し、特別会員を加え、なるべく多くの記名を紙数のある限り集めるように、と要請した(1:82)

1935年(昭和10)4月18日、騒擾事件の犠牲者として大審院上告中であった富水青年団の団員たちは、過日の判決で上告棄却となり、服役することになった(1:82)。富水青年団は、その慰謝方法をどうするか協議し、とりあえず餞別を贈り、幹事並に支部1名で見送りをすることを決議した(1:82)

事件はそれ以降の足柄村の村政や村民感情にも禍根を残した(6)。水源地問題をめぐる小田原町と足柄村の諍いは、その後約7年間続き、小田原市が発足する直前の1940年(昭和15)9月に解決に至った(2)

関連資料

  • 「狂った富水村民/試掘番小屋に放火」『東海新報』1933年(昭和8)7月15日、2面(3)
  • 西さがみ庶民史録の会『西さがみ庶民史録』第10号、1985年6月
  • 小田原市水道50年史編纂委員会 編『おだわらの水』小田原市水道部、1986年

参考資料

  1. 平塚・井上ほか1985:平塚昌一・井上春江他「青年団と婦人会 戦前の活動」富水西北史談会 編『富水西北の歴史 第2巻』富水西北公民館、1985・昭和60、77-94頁
  2. 播摩晃一「小田原町のコレラ流行と水道問題」播摩晃一ほか編『図説 小田原・足柄の歴史 下巻』郷土出版社、1994、28-29頁
  3. 播摩1994:播摩晃一「足柄騒擾事件」同書78-79頁
  4. 「178 小田原町水道調査報告 昭和4年(1929)」『小田原市史 史料編 近代II』小田原市、1993、378-383頁
  5. 「179 片岡永左衛門の小田原町水道問題に関する記録(1)~(3)」同書383-385頁
  6. 星野2001:星野和子「町営水道水源地をめぐる足柄騒擾事件」『小田原市史 通史編 近現代』小田原市、2001、482-483頁、I 近代 第13章 第5節 都市化の進行と社会運動
  7. 金原2001:金原左門「水道行政から小田原振興へ」同書505-508頁、I 近代 第14章 第1節
  8. 神奈川県警1972:「足柄村騒擾事件」神奈川県警察史編さん委員会 編『神奈川県警察史 中巻』神奈川県警察本部、1972、380-387頁

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