大島で生涯を終えた彫刻家長島定一作の椿

「この椿はね、大島の作家の物なんですよ。なかなか素敵な恋愛の果てに大島にいらした方で、ほら、南島館ってご存知ですか。昔はお宿をやられていて、その創設者の長島さんです。新島石(にいじまいし)ともいうのですけど、新島で採れる坑火石(こうがせき)で出来ているんです。この石はガラスの材料になるので、新島ではガラス細工がありますね。皆さんご存知なのは、渋谷駅のモヤイ像が、この石で出来ています」。


物腰の柔らかい宿のご亭主が、突然キュレータになってしまう。質問を重ねるとどんどん知りたい話が出てくる。流紋岩の一種で、白く美しい長石と透明に輝く石英のが目立つ石。軽石のようで、柔らかく鑿にかかりやすい。古くから建材として珍重されたという。近くに寄ると、小さな水晶とでもいおうか、石英の六角の結晶の大きな粒が輝く。大島の作家に新島の石を使わせて、その作品を玄関に置く。この島の文化を育てようとされた白髪の紳士の思いがじわっとくる。

2m×3mぐらいはあるだろうか、巨大な椿が玄関ホールを支配している。
 

 

大島出身の画家、​中出那智子の描いた三原山

ご主人の丁寧なご説明に、那智子さんの絵がさらにしみ込んでくる。なんだか、また三原山に登りたくなるではないか。

「これは、たまたま新宿の伊勢丹で個展が有りましてね、それを手に入れたんです」と笑う。「この那智子さんは、定一さんのお嬢さんなんですよ。国際的に活躍されているので、なかなかお会い出来ませんけど、時々は大島にいらっしゃるのでしょうね。絵のことを尋ねてくださるかたが滅多にいらっしゃらないので、ちょっと嬉しいですね」。今までに観た三原山の絵画のなかでも、もっとも印象に残る絵が壁に有ったので、朝食の後、浴衣姿でフロントの前を通りがかったときに「この絵は」とご主人の方を見ただけだった。那智子は定一に詩と美術を手ほどきされたという。

 

 

悠長な時間を過ごしていたら、もう9時ではないか。しかもまだ浴衣だ。あれれ、僕ら朝風呂を浴びて、朝食は7時からたべていたのではなかったか。おまけに今日の出帆は岡田港。「タクシーお願いします」といって慌てて帰り支度。9時50分発の熱海行きに間に合った。


短い時間なのにとても寛ぐホテルだった。

「僕は、商売がうまくないので、大きくすることは出来なかったです。お客様のお陰で細々と続けております」というご主人に「赤門」の由来も伺う。
為朝の御子孫なんですかと訪ねると「眉に唾を付けて聴いて頂ければ、数えて39代ということになっています」背の高い姿勢のいいご主人はなんとも素敵だ。飲み屋でも、他の宿でも、彼の優しさを絶賛する人に何人もであった。

「赤門さんにお泊まり?ご飯も温泉も評判いいわよ」。
「ご主人、すっごいいい人なの。怒ったところ見たことねえずら」。


行き届いた庭の手入れ、大きな椿に沢山花が着いてリスが走っている。元町の港が見える。

 

地役人という地元の最有力者に役職を渡す制度がある。江戸時代の藤井家は伊東の代官の下、大島を預かる役人だった。当代のおじいさまの代に「財産を全てすってしまった」という。質問を続けると、大島に電気を引きたくて、火力発電所つくったり送電するために私財を投入してしまったそうだ。「東京電力さんがやっても赤字なのにね」と笑う。「幕末から明治にかけて、昔はどこの村長も、私財を投じて、村の整備をしたようですよ。うちに限ったこどではないんです」。名家は名家としてのご苦労が伺える。
お父様を早くなくされて、お母様が民宿をおやりになったあと、ご当代が今のホテルを建てたという。


ホテルの名前になっている赤門。「保元の乱に敗れ、大島に流された弓の名人「鎮西八郎源為朝」の住居跡地に建てられたホテル赤門は、資料館という別の顔があります」とホテルのホームページにある。(TEL:04992-2-1213)
 

木立に囲まれた露天風呂が気持ちいい。
温泉は私の場合、上がった後、すこぶる肌の調子が良くなった。

 

朝食に冷たい大島牛乳が妙に嬉しかった。冬の鯵の開きが大好で頭から食べる私、鰭がこげておらず、ぱりっと煎餅のように食べて旨い焼き加減は嬉しい。皿にはなんの欠片も残らなかった。庭の椿を眺めていると、揚げたてのさつま揚げに明日葉が練り込まれてやってきた。熱々だ。

 

TEL:04992-2-1213
http://ooshima-akamon.com/(外部サイト)

交通


元町港より徒歩2分