地名の由来は、椎の木がたくさん群生していたからだそうです。

現在、おおよそ110軒・300人の方が南海高野線高野下駅を中心とした谷間で生活しています。

北峯農道ビューポイント案内板北峯農道ビューポイントからの眺望

今からは想像もできませんが・・・

明治末期から昭和初期にかけて、300軒・2,500人もの人々が生活し、高野山の玄関口として栄えていたそうです。当時、街道沿いには十数軒の旅館が建ち並び、結構最先端のシステム(高野索道・高野参詣自動車・高野山森林鉄道)が導入されていました。

大正時代椎出地区絵図

※大正時代椎出地区絵図は、昭和54年7月に河合重弘さんが描かれたものです。

◇高野索道・・・明治45年開業。足尾銅山に次ぐ日本で2番目の索道。ただ、複線循環方式では日本初となる施設。椎出から高野山大門までの6,431mをほぼ直線で結ぶ。ポストは43基、100kg積みのゴンドラ100個搭載。イタリアのセレッテタンファニー製。昭和34年に閉鎖され、現在はポスト跡の石積だけが残る。 高野索道の記事もあります→高野索道

◇高野参詣自動車・・・大正13年設立。日本初の自社の自動車専用道路をもつ乗合自動車会社。大正14年、椎出から神谷までの6.4km(幅員4.5m)で開業し、同年極楽橋まで延伸。高野下駅と極楽橋を25分で結ぶ。イタリア製の自動車3台で月3万人を運んだ記録が残る。昭和16年まで運行。

◇高野山森林鉄道・・・津軽森林鉄道に次ぐ日本で2番目の大規模森林鉄道(総延長45km)。明治42年に高野-九度山間が開通。高野山電気鉄道敷設残る資材運搬にも利用されたが、昭和34年廃線。

 

時代とともに、めまぐるしく変化してきた椎出地区。歴史の足跡を辿りながら、ゆっくりと散策してみませんか⤴︎⤴︎❓訪れるたびに新しい発見があるかもしれませんよ♫(≧∇≦)