高野山西南院に所蔵される、江戸中期のものとされる絵図には「長坂」もしくは「長坂道」と呼ばれる道があり、九度山町椎出地区の方々が、やはり長坂と呼ぶ坂道が高野下駅前の椎出郵便局から、神谷駅近くまで続く。この道を「槙尾道」と呼ぶ人もいて、弘法大師が槙尾山に参詣する時に使った道としている。 大正二年に県費を投じて、県道として造られた道が「新高野街道」(県道高野橋本線)と言われ、車の通行を前提としない時代に作られた。この新高野街道は長坂と重なる箇所が多く、駕籠かきなどが使い易いように付け替えられている箇所がいくつかあるという。



時代が下って、この長坂は、大正4年高野山開創千百年記念法要の年には、年間40万人、1日最大1,000人が通行したと言われ、沿道には旅館が10軒を超え、山道に多数の茶店があったという。人の流れが京大阪道から長坂に移り、京大阪道の起点、学文路に現在もある刈萱堂の役割を分けて、長坂にも刈萱堂が作られたが、現在は廃寺されている。

 

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「槙尾道」に関する記述

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