九度山町では以前、町史を編さんするにあたって町史編纂室が存在し、冊子を上梓するまでほぼ毎月、「広報くどやま」に「町史編さんだより」を掲載していました。その内容を転載します。 以下、平成8年7月号の記事です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 400年昔の丹生川村 豊臣秀吉は天正13年(1585)大軍を率いて紀伊国に侵攻、根来寺・粉河寺を焼き払い、さらに高野寺領十七万石の土地を全部没収し短時日で紀州を平定しました。その後秀吉は高野寺領の復活を許し紀の川の南岸、那賀・伊都両郡で二万一千石の土地が寺領となりました。 けれども、丹生川村だけは、周辺の寺領の村に囲まれた紀伊藩領の村に生まれかわりました。 関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康の武将浅野幸長が慶長5年(1600)紀伊国大名として入国、直ちに検地に着手、丹生川村の石高(生産高)は九十八石余りと算出され、この時丹生川村の飛地、小字「滝の亦」も寺領から藩領に編入され、そのため300年間の境界争いの原因となりました。 元和5年(1619)徳川頼宣が紀伊藩に入国するまでの約19年間が浅野大名時代です。この変動の時に丹生川村の氏神丹生大明神の修理・正遷宮が行われたのです。 丹生大明神社の修理 慶長9年(1604)から勧進をはじめ、社の屋根の葺替作業に着手しました。 高野山の十八寺院から、 米 一石九斗 酒樽 一つ 銀子 一貫文余(当時は中国から輸入の明銭) が寄進されています。 ...
1996年07月号 豪華 能舞奉納 丹生川村 丹生大明神 正遷宮
九度山町では以前、町史を編さんするにあたって町史編纂室が存在し、冊子を上梓するまでほぼ毎月、「広報くどやま」に「町史編さんだより」を掲載していました。その内容を転載します。 以下、平成12年9月号の記事です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「左真田幸村公旧蹟 右高野山」と文字を刻んだ石の道しるべ(道標)を見た人もあると思いますが、こんな道標が九度山町内では数多く残されています。特に、人里離れた山中では、今でも昔のままの場所で山を歩く人々に道案内をしてくれます。 町内の古道 九度山町内で古道としてよく知られている道には、慈尊院から高野山への町石道、学文路から繁野・河根峠・河根・神谷から不動坂を登り高野山へ通じる東高野街道(九度山から椎出・長坂を通り神谷で合流する道もある)や橋本から清水・国城山の東を通り、市平・美砂子・久保・黒河・平を登り楊柳山・子継峠を経て千手院谷への黒河街道の三街道があります。 これらはいずれの街道も高野山への登山道で“高野街道七口”の内の三口です。 町石道 この道は一番早く開かれた道で、花こう岩の高卒塔婆(五輪塔)が立てられ、これらほとんどの石は鎌倉時代のもので、国の史跡に指定されています。 卒塔婆は、もちろん信仰上のものですが、一町(約109m)ごとに立ち、町数が刻まれ道標の役目も兼ねています。この他里石も三十六町ごとに立てられ、一里が三十六町であることを表しています。 この道には町石や里石だけでなく、雨引山の手前に「右かうや三リあまの明神 左こさわ一リかうやちか道」と自然石に天野・高野山への道のりを教えてくれる道標もあります。 この町石道には、寛延2年(1749)7月1日に関東巡礼千五、六百人程が通った、という記録(中橋家文書日次記)が残されており、多くの人々が行き交ったことがうかがわれます。また、高野山奥之院の古い石塔もほとんどこの道を運び上げられたものと思われます。 東高野街道(不動坂口) 学文路駅下の宝暦8年(1758)建立「右慈尊院みち是より一里 左ハ高野みち女人堂迄三里」(最近、享保6年の道標が発見され、近くに立てられている)から河根峠に「高野山女人堂迄八十町」「右大阪みち 左まきのおみち」が、また河根に「高野山女人堂迄七十五町」、千石橋北詰に安政四年(一八五七)建立の「高野山女人堂江二里」の道標があります。 ...
2000年09月号 古道と道しるべ
不動谷川
一般に大学のサテライトキャンパスは利便性の高い都市部に設けられるようですね。そこで社会人向け等々の講義が行われるようです。 最近の大学は地元に密着した活動が多いようですので、そこを利用して和歌山大学のサテライトキャンパスを誘致してしまいましょう。 古くからの歴史ある町です。ここを地元の歴史学の拠点とすることで、実際の史跡に触れながら学習できるというメリットがあります。高野山だけでなく、陸奥宗光、真田幸村、大石順教尼、松山常次郎… 等々、一つの時代に縛られることなく、様々な時代のことに触れることができます。また、なによりも縄文・弥生時代から綿々と紡がれてきた庶民の生活がここにはあります。 実学の場というのは貴重です。せっかく町民憲章にも「教養を深め、文化の香り高いまちをつくります。」とあります。史跡に触れつつ学習できる場として九度山を教育の拠点にしていきましょう。 サテライトキャンパスの場所ですが、残念ながら九度山にはたくさん空き家がありますので、それをゼミ室にしてしまうと、古い町屋で勉強できます。楽しいです。 他にも色々アイデアがあると思います。本当にサテライトキャンパスが誘致できるよう、皆さん思いついたことを色々書き込んでみてください。 この町について驚いたことは、単なる人口4500人の和歌山の田舎町に日本国の歴史に大きく係わった方々が3人もいたということだ。一人目は随分昔だが丹生都比売神社の祭神 あの天照大神の妹 わかひるめのみこと 神話ではそういう名前。大陸より入郷へ上陸し稲作を教えたといわれる人。二人目はもちろん真田幸村。天下の徳川と対峙し戦国の世に散った武将。三人目は陸奥宗光 伊藤博文政権で外務大臣を務め三国干渉を臥薪嘗胆に日本を帝国主義へとリードした人。いずれも日本の歴史に大きな影響をもたらした人達がここにいたということはサテライトキャンパスを誘致するに十分な素材だと思う。昔を知ることは未来を見渡せる素養を養えるということです。
九度山に和歌山大学のサテライトを
九度山は奈良県だった について知っていることをぜひ教えてください 江戸時代高野山寺領内であった九度山村は廃藩置県により明治維新の時まず明治2年堺県に編入される。大阪府が領地を拡充したい旨の一環だ。しかし山越えの行政ではしっくりいかず翌年明治3年お隣の五條県に編入された。古代から奈良とは交流があり飛鳥が都であったころ都内を意味する畿内が伊都郡内であった。その痕跡が都の文字に残存している。笠田の向こうは四国と同じ南国(南海道)として考えられていた。笠田のカセとはさあ畿内から出て行こうという都の中から出る意味を持つ古代語だ。しかしながら廃藩置県の再編があり五條県は奈良市を県庁とする奈良県に編入されると九度山にとって遠すぎるため以前は敵対関係でもあった紀州藩をルーツに持つ和歌山県に明治4年編入されることとなった。ボーダーとしての伊都郡九度山村はこうして和歌山県となったのである。現在は経済圏としては大阪、天気予報は奈良、行政管轄は和歌山という風ななりわいなのだ。弘法大師のお陰でユネスコU.N.E.S.C.O(United Nations Educational Scientific,and Cultural Organization)〈国際連合世界教育科学文化機関)世界文化遺産高野山の後背地として日本全国はおろか世界中へその情報を発信できる場所だということを知る人は町民でも少ない。
九度山は奈良県だった